石橋巡り
(2004年9月11日)

4.八女市〜上陽町〜甘木市

(宮の原橋・大瀬橋・鮎帰橋・寄口橋・枕橋・洗玉橋・秋月眼鏡橋)



1.鹿北町〜立花町その1 2.立花町その2 3.黒木町
5.日田市その1 6.日田市その2〜天瀬町〜大山町 7.道中で見たもの



宮ノ原橋 八女市宮ケ原

星野川
橋長:46.0m
橋幅:3.6m
径間:9.0m
拱矢:3.0m
架設:大正11年(1922)
4連アーチ




上陽町役場から県道52号線を1Km西進。
大瀬(だいぜ)橋 八女郡上陽町北川内

星野川
橋長:45.5m
橋幅:3.7m
径間:12.0m
拱矢:3.0m
架設:大正6年(1917)
石工:萩本宇作
3連アーチ

上陽町役場から県道52号線を200m西進、県道798号線へ右折してすぐのところに架かっています。




鮎帰橋 八女郡上陽町黒岩

下横山川
橋長:12.8m
橋幅:2.6m
径間:7.9m
拱矢:3.1m
架設:明治38年(1905)
石工:橋本八十松、萩本宇作

鮎帰橋の由来
 「鮎帰橋は県道北川内草野線より分岐して、上陽町大字下横山轟区字鮎帰と、黒岩区字黒岩を通る町道黒岩線が、下横山川を横断する地点に架設された一連式アーチ型の石橋(単拱橋)である。而して此の地点は町役場より、大瀬を経由して、約750mに当たる地点である。架設に当たっての石工棟梁は、本町に於ける名橋洗玉橋架設の大任を果された萩本宇作、橋本八十松の両氏が任用され、現在(1990)より約85年前の明治38年8月22日に欄干無しの木橋に代わって、本町に於ける石橋群中、第三番目の石橋として竣工した。当時の村長は横山村第四代目村長立石貞幹氏(仏尾出身)である。架設された単拱橋は長さ12.8m、幅員2.6m、径間7.9m、拱矢3.1m、拱矢比2.5m、拱厚0.45mである。今回(1989)発見された当橋の架設当時に於ける写真によれば、当橋の全姿が分かり、欄干は親柱だけで切り石を連ねて造られ、字黒岩側の親柱の一つには、上記竣工年月日が辛うじて判読可能であるが、他の親柱の文面はわからない。壁石は「平行積」のようである。架設に使用されている石材は凝灰岩で、轟石(生駒野石)と言われ、セメントは使用されていない。斯くして架設された鮎帰橋と洗玉橋は姉妹橋である。当橋架設以来約49年後の昭和29年に黒岩橋(宇重ノ尾の現在地)が架設されるまでは、この付近には、飛石だけで橋は全く無かったと、地元の人は言われている。従って上記の木橋と鮎帰橋が、当時の人々の生活の便を支えて行く上に、如何に重要な橋であったかが理解される。然るに時が経つにつれて、世は益々進歩発展して、車の流行する時代となり、此れに対応する為に橋の上、下流両側に橋のアーチに合わせて、拡幅工事が行われ、昭和47年3月に竣工し、橋の長さは13.2m、幅員4.15mとなったが、旧橋の姿は不明となり、川に下りてアーチの部分が、辛うじて見えるだけになった。拡幅当時の町長は、上陽町長第四代目の小川秀木氏である。斯くして鮎帰橋は車社会の時代にも、一応対応が可能な橋となり、県下に於ける度重なる水害、特に大正10年、昭和28年の大洪水にもよく耐えて、架設以来現在まで約85年間充分に其の使命を果たしている。本町の重要な石材文化財である。」

上陽町教育委員会

大瀬橋から県道798号線を200m北上、左折したところに架かっています。




寄口橋 八女郡上陽町北川内

星野川
橋長:44.0m
橋幅:3.6m
径間:16.5m
拱矢:4.3m
架設:大正9年(1920)
2連アーチ

上陽町役場から県道52号線を200m西進、県道70号線へ左折すぐのところに架かっています。




枕橋 八女郡上陽町北川内

横山川
橋長:22.1m
橋幅:
径間:20.5m
拱矢:
架設:昭和4年(1929)

寄口橋から県道70号線を150m北進、左折したところに架かっています。





洗玉(せんぎょく)眼鏡橋 上陽町大字北川内字洗玉

星野川
橋長:32.5m
橋幅:5.0m
径間:22.5m
拱矢:10m
架設:明治26年(1893)

「名称 洗玉(せんぎょく)眼鏡橋 
所在地 上陽町大字北川内字洗玉
竣工 明治26年(1893)
材石 阿蘇凝灰岩(生駒野山産出)
形式 石造一連式アーチ型
請負人 名工棟梁 橋本勘五郎(熊本県種山村)
    大工棟梁 吉沢大七(熊本県吉野村)
法量 長さ 32.5m 幅員 5m 径間 32.5m 拱矢 10m
   拱矢比 2.25m 拱厚 0.85m

 当時、上妻・下妻郡役所は木橋架設の計画が進められていたが、北川内村民の強い要望により石橋架設に変更され、郡費村費の外に北川内村民222名の一般寄附により、上名室園間の星野川に明治26年(1893)5月3日、熊本県矢部町の通潤橋を手掛けた橋本勘五郎によって架設された。
 石橋の左右側に鞘石垣が設けられ、壁石は乱れ組の技法を取り入れた。福岡県随一とも言われる最大級の石橋です。明治・大正・昭和と幾多の洪水にも耐え、美しい弧を描き、アーチ造りの強靭さを物語っている。又、上流側アーチ中央部分の要石に「肥後上益城矢部吹上兄弟橋、八代種山棟梁 橋本勘五郎、倅 源平、孫 為八と刻銘がある。この洗玉橋は勘五郎最後の架橋として有名を轟かし町民の偉大なる文化遺産である。」

上陽町教育委員会


上陽町役場前から県道52号線を800m東進、左手に架かっています。



秋月眼鏡橋 福岡県甘木市下秋月
野鳥川
橋長:17.9m
橋幅:
径間:13.9m
拱矢:
架設:年(1810)

「この石橋は文化七年(1810)に架けられたもので、ことに花崗岩使用は国内でも珍しく、昭和31年4月県指定有形文化財(建造物)に指定されている。
 ところで、この橋が架けられる以前は、板橋でありそのため、一度大雨が降れば野鳥川が氾濫し、橋の流されることが度々で、其の都度、藩では橋の架け替えに手を焼いたものである。
その頃秋月藩は長崎警備の代番を命ぜられ、長崎へ赴く者が多かった。それらの人々は中島川に架かる石橋に目をとめて、あんな橋が秋月にも、と思わない者はなかった。これに裁断を下したのが首席家老の宮崎織部舒安である。かくて長崎の石工に頼み工事は着々と進められた。完成までに数年を要し、一度は竣工間際に崩壊するという事態もあったが、さらに慎重を期し再度着工、見事に完成したのが現在の橋である。橋名は初め長崎橋、だが今は眼鏡橋に定着している。」

甘木市教育委員会

場所は有名なため省略
5.日田市その1へ