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桂林橋 日田市城町 城内川 橋長:6.4m 橋幅:0.65m 4径間桁橋 豆田町の東側、城内川に架かっています。 月隈幼稚園の西側、桂林園近くです。 |
神池(しんいけ)橋 日田市田島町 橋長:5.7m 橋幅:2.7m 2径間円弧桁橋 架設:文化11年(1814) 日田市役所の東側、大波羅八幡宮境内にあります。 |
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小月(おづき)橋 日田市夜明 上町 橋長:7.1m 橋幅:3.2m 径間:5.6m 拱矢:2.4m 架設:嘉永2年(1849) 小月橋と歌詠橋 「この橋は小月橋である。嘉永二年(1849)豆田の手島氏が施主となり、肥後の石工岩永大蔵によって造られた。 この下流約100mの大肥川には、かつてこれと兄弟の目鏡橋があって、歌詠橋といった。 歌詠橋は豆田の広瀬氏、千原氏、関の行徳氏が施主となり、長さが30mあったという。広瀬淡窓は嘉永二年四月十二日、青邨等と訪れて真に偉観なりと日記に書いている。 また碑文を書き、誌にも詠んで、空を横ぎる橋の美しさを、長虹とも新月ともたとえている。 しかしこの橋はわずか一年ほどで、洪水に流失した。」 淡窓会 夜明三叉路から国道211号線を1.3Km北上、右折。 250m先に架かっています。 |
大肥(おおひ)橋 日田市夜明 大肥 大肥川 橋長:27.6m 橋幅:4.6m 径間:22.5m 拱矢:4.7m 架設:明治32年(1899) 「この橋の上流約1.5Kmに位置し、参勤交代の街道でもあった茶屋の瀬に架けられた歌詠橋は、石造アーチ橋で、当時は名橋として評判も高く、広瀬淡窓の詩にも詠われたものであった。しかし惜しいことに、翌嘉永三年の洪水によって流失し、長い間多くの人々は困り果てていた。 その代わりとして明治三十二年に完成されたこの大肥橋は、セメントやコンクリートの無かった時代に拱矢比4.8という日本でも珍しい扁平な石造アーチ橋であって、余程熟練した石工の手によって作られたものであろう。以後約80年間年々通過する自動車が増加し、今では1日1万台を越す交通量となり、その上1台1トンもなかった車が現在では20トンも越すように大型化してきた。この莫大な荷重にもめげず、又洪水や地震にもびくともせず今日までその役目を果たしてきたのである。 石造アーチ橋はもはや作られなくなってしまった現在、私達はこの美しい石造アーチ橋を何時までも大切に保存してゆきたいものである。」 案内板より 夜明三叉路東側、大肥川に架かる現橋のすぐ上流に架かっています。 |
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筑後鉄道軌道橋 日田市高井町 橋長:22.0m 橋幅:3.6m 径間:6.0m 架設:明治40年(1906)頃 夜明三叉路から三隈川を渡り国道210号線を南東へ700m、右手竹林の奥にあります。 |
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筏場(いかだば)眼鏡橋 日田市高井町筏場 橋長:9.0m 橋幅:2.7m 径間:7.8m 拱矢:4.2m 架設:文化3年(1806) 筑後鉄道軌道橋から国道210号線を2.3Km西進。 自動車整備工場を過ぎ、左手に案内板があります。 |
「江戸時代の文化三年(1806)に架けられたこの橋は、大分県内で現存する最も古い石造アーチ橋である。 橋の高欄は失っているが橋脚はよく残っており、全長9m、幅2.5m、高さ6.4mのきれいな半円形を描いている。 旧上野村安心院家の文書の中には、当時筑後街道の整備をおこなっていた代官羽倉権九郎にあてた工事請負証文が残っている。それによれば、高瀬筋の庄屋たちが、日田郡竹田村の石工久治と五郎吉に依頼して造ったもので、この橋を架けるのに延400人の人手と石材九十本が使われたことがわかる。 江戸時代の重要な交通路であった筑後街道の様子を偲ぶことができ、夜明の小月橋とともに当時の建築技術の高さがうかがわれる。」 日田市教育委員会 |
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白手(しらて)橋 日田市高井町 橋長:18.0m 橋幅:6.7m 径間:9.0m 拱矢:6.5m 架設:明治33年(1900) 筏場眼鏡橋の上流、国道210号線に架かっています。 |
6.日田市その2〜天瀬町〜大山町へ |