28.麓城址の紅葉 2021.11.13 1.南郷城跡 2.大島(23日) 3.高鍋湿原(23日) 4.矢岳高原(24日) 5.高鍋湿原(24日) 6.佐土原夕(25日) 7.佐土原朝(26日) 8.佐土原夕(26日) 9.佐土原朝(28日) 10.佐土原朝(29日) 11.矢岳高原(30日) 12.高鍋湿原(30日) 13.調整池 14.矢岳高原(31日) 15.佐土原朝(1日) 16.佐土原夕(1日) 17.佐土原朝(2日) 18.矢岳高原(3日) 19.白鳥の田の神 20.六観音御池(3日) 21.佐土原夕(4日) 22.藺牟田池(6日) 23.下植村の田の神 24.陣の池 25.跡江のコスモス(6日) 26.佐土原朝(9日) 27.佐土原朝(10日) 28.麓城址の紅葉 29.新宮寺の紅葉 30.相良家墓地 31.永国寺 32.大塚高橋 33.藺牟田池(13日) 34.跡江のコスモス(14日) 35.平和台のラクウショウ 36.佐土原のコスモス(16日) 37.佐土原のコスモス(17日) |
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球磨郡あさぎり町上南 |
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上村城址 あさぎり町史跡 「南北朝時代(1332〜1392)の球磨郡は、上相良家(多良木)と下相良家(人吉)が南朝側と北朝側に分かれ、周りの豪族を引き入れて互いに争った時代でもありました。当時の上村は、三池兵庫助妻女の支配地でしたが、正平年中(1346〜1369)には、上村三十五町・八十石が人吉の相良定頼の領分となったことを『大日本古文書』に記録されています。 上村城は、麓城、亀城とも呼ばれる中世の山城で、麓集落の東南部に位置しています。いつ頃の築城かはわかりませんが、南北朝時代に相良氏の領地となったことで、その頃から人吉城の支城として使われていたものでしょう。城主には相良一族を配したと思われます。高城・中城・下城の三つの廓(平場)に分れていて、大手に通じる麓馬場と天神口馬場があり、大手の西手から堀切が東西に掘られ、さらに折れて南北に走っています。この堀を外堀として二つの馬場を包み込み、東の谷水川をはさんで壮大な山城を形成していました。このことから麓地区全体が城内であったようです。 室町時代、上村家第11代三河守直頼が城主となり、12代頼廉、13代頼興と続きました。 その頼興の嫡男で藤五郎頼重(のちの相良晴広)が相良宗家を継ぐことになり、14代左衛門大夫頼孝は、宗家の相良義陽(晴広の嫡男)に対して反乱を企てたことで上村家は没落、その後、上村城は、犬童美作頼安入道休矣(相良清兵衛の父)の居城となりました。 永禄9年(1566)には、相良清兵衛頼兄が誕生していますが、一説ではこの上村城で誕生したのではないかと考えられています。上村氏は、相良長頼の四男で四郎頼村を初代とし、12代頼廉(相良家第13代長毎の弟)を相良氏から迎えたことでさらに血縁が濃くなり、やがては、相良氏を上村晴広(相良氏第17代晴広)が養子に迎えられて相良宗家を継ぐことになりました。 武家屋敷の地割 上村城跡北西側の麓地区が城下にあたります。そこには中世の侍屋敷があったところで、、敷地の地割や石垣・老木・水路など今でも残っていて歴史的に大変珍しい集落です。 上村城跡登城口から白髪神社へ向かうまっすぐな道の通りを『麓馬場通り』といい約350mあります。また、登城口から西へ向かう通りを『天神口馬場通り』といい約250mあります。通りの左右には、中世(南北朝〜桃山時代)、上村氏の重臣たちの屋敷が続き武家屋敷を構成していました。『馬場』とは、馬がまっすぐに走れる通りで、乗馬や馬術の訓練を行ったところの呼称といいます。」 あさぎり町教育委員会 平成22年3月吉日建立 |
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去年より1日早い訪問 |
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これから |
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上から |
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落ち葉も真新しい |
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透かし葉 |
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今日の訪問客は自分を入れて4人 |
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光芒 |
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ゆっくり撮影できました |
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帰り道 |
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帰り道 29.新宮寺の紅葉へ |