石橋巡り
(2004年3月13日)

3.道中で見たもの

馬場の庚申塔・松山城址二ノ丸跡・つくし・宝満寺跡隈田原兄弟仁王像菜の花畑山之口村古墳



1.山之口町〜松山町

2.志布志町〜有明町







馬場の庚申塔 松山町馬場

 「子供の百日ぜき・麻疹等が流行った時、庚申塔に赤いよだれかけを掛けて、それらの病気にかからないように祈ったといわれています。
 この庚申塔はいつごろ作られたのか不明ですが、立体的で重量感のあるつくりです。表面には、悪い流行病をおさえる青面金剛が、邪鬼(天の邪鬼)を踏みつける姿が彫られています。
 また、顔などが壊されていますが、これは明治初めの廃仏毀釈(仏様を軽蔑して、神さまを大切にすること)の時に壊されて川などに捨てられたものを、後で拾い上げて、この場所におまつりしたためです。」

松山町教育委員会

松山城址(二ノ丸跡)

 
松山城は文政四年(1188年)平清盛の孫である隠岐守重頼が松山に来て松山城を築いたという記録が残っています。
城が築かれた後、4年経った建久三年(1192年)には、源頼朝が鎌倉幕府を開きました。このような時代に、城を築いた重頼はいつ頃まで松山を治めたのか分かりませんが、あまり長くなかったといわれています。
 その後、戦国時代になると島津氏や肝付氏などの勢力争いのため、松山城は度々激しい戦乱の舞台と成、何度か落城したようです。最終的には島津氏の直轄地となり、島津家の家臣が地頭となり松山を治めました。
 松山城は本丸、二ノ丸、五兵衛城、八幡城の4つに分かれていますが、現在そのままの状態で残っているのは二ノ丸部分だけです。

松山町教育委員会








つくしが出始めていました
宝満寺跡 志布志町
鹿児島県指定文化財

 
明治2年(1868)の廃仏毀釈によって廃寺となった秘山密教院宝満寺の遺跡である。
 宝満寺は聖武天皇神亀年中(724-728)の壮健と伝えられ、正和5年(1316)院宣を受けた信仙上人英基和尚により再興された勅願寺である。
 元応2年(1320)本山の奈良西大寺より下向安置された本尊如意輪観音は運慶一代の名品といわれ、安産守護の霊仏として奥三州の尊崇を受け、安産の護符を授る新郎新婦のシャンシャン馬の参詣風物もこの地にはじまるとされる。
 興国元年(1340)足利直義は日向一の寺として一国一基の塔婆を安置し仏舎利を奉納している。宝満寺はまた古来院参の寺格を有し代々の住職は上京参内して香衣の勅許を受ける名刹であった。
 明治2年の廃仏毀釈により西海の華と呼ばれた美しい華麗な堂宇や什宝記録等の一切を焼失したが、本堂の敷地跡に旧庭園石橋下馬札隈田原兄弟仁王像、歴代住職墓等を残し、岩窟や背後の自然林と共に往時の繁栄を偲ばせている。
 尚、廃寺後も町内有志の仏心講の手により、観音堂を建立して宝満寺の観音信仰を現在に伝え、旧4月8日の釈迦祭りは今も盛大な賑わいを見せている。
隈田原兄弟仁王像
 
応永八年(1401)の島津家の内乱のとき前川河中で戦死したと伝えられる隈田原兄弟の武勇を偲んで建立されたもの。




菜の花が満開でした。ミツバチが羽をブンブンいわせて飛んでいます。




山之口村古墳 山之口町
県指定史跡

 一号墳 径:6.3m、高さ:2.1m
 二号墳 径:5.4m 高さ:1.7m

 
この古墳は、円墳二基が東西に相対し、ほぼ原形のまま残されています。
 二基の古墳が並ぶ墳丘は、五段の環状に築かれており、大変珍しく、昔より大切に保存されてきました。周辺一帯には、八基の未指定古墳、六基の県指定古墳が点在していましたが、現在ではこの二基だけが残っています。
 また、この付近一帯は「新町原」と呼ばれ、古代日向諸県の中心として栄えたといわれています。
 今でも地域住民の手で大切に保存整備されています。

山之口町教育委員会




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