石橋巡り
(2004年4月3日)

4.道中で見たもの
(朱門・市野々付近の石造・市野々付近の桜・平松城跡・黒島神社・黒島神社の石灯籠・
山田の凱旋門・木津志の田の神・レンゲ畑・蒲生のクス・下久徳の田之神・)



1.国分市〜姶良町1

2.姶良町2

3.蒲生町



朱門
国分市指定文化財

 「舞鶴城内陣の門であったものを市内重久の細山田家の祖先が領主島津義久公より拝領したものである。
 昭和38年、細山田家から大隅国分寺跡に移転保存されたが、台風のため倒壊した。
 昭和50年、国分市の市制二十周年事業の一環として、当地に復元保存された。」
国分市教育委員会
市野々橋近くの石像





市野々橋近く
平松城跡
姶良町指定史跡

平松城跡の歴史
 「戦国時代の天文二十三年(一五五四)、岩剣合戦と呼ばれた島津氏と蒲生・祁答院方との激しい攻防は、岩剣城(右手の急峻な山)の落城によって終止符を打ちます。この合戦で初陣を飾った島津義弘は、岩剣城に在番することになりました。しかしながら、山頂から麓までの道は大変険しく日常生活には不便でしたので、ふもとのこの地へ館を築きます。これが平松城の始まりです。
 義弘は慶長五年(一六〇〇)の「関ヶ原の合戦」直後にもしばらく在城し、慶長十年から翌年にかけて帖佐からこの城に移り、加治木へ移るまでの居館としました。その直後、当城には島津義弘の夫人や娘の御屋地様が晩年を過ごしています。
 江戸時代中頃の元文二年(一七三七)、藩主島津継豊は、弟の忠紀に鎌倉時代以来の名家である越前島津家を再興させます。翌年には帖佐郷から脇元村・平松村・船津村・春花村・触田村(吉田郷)を割いて「重富郷」と名づけます。これ以後、平松家は越前(重富)島津家の領主の館となり、一帯には麓と呼ばれる家臣団の屋敷地が計画的に整備されています。
 天明の頃、城内には藩内初期の学校である振業館が建てられました。幕末維新に活躍する島津久光(島津斉彬の弟)も若い頃越前家第二十代当主としてこの平松城に住んでいます。
 明治維新後、この地には重富村の役所や学校が置かれます。
 正面の石垣は、野面積みと呼ばれる古い積み方です。体育館のある北東の土地は、城にとっての鬼門でしたので、昔は石垣が南へ折れ一段低く積まれていました。また、石垣前面の広い道は「館の馬場」と呼ばれ、幅11m、長さ約275mあります。
 最後に、小学校正門にある門柱は、以前鹿児島県庁の正門として使用されていたものを移築したものです。





黒島神社
姶良郡上名山田

創建 和同元年(七〇八)

祭神
 多祇留姫
 多祇津姫
 大名持命
 應神天皇
 神功皇后
 大食都姫
建立 安政五年
    (安政大獄)
   (日本国中さわぐ)
時代 ○明天皇
   家茂将軍
建立 元治元年
建立 嘉永六年
    (ペリー来る)
時代 孝明天皇
   家定将軍
建立 天保十五年
時代 仁孝天皇
建立 天保十五年
時代 仁孝天皇
建立 安永六年
    (一七七七)
時代 後桃園天皇
建立 延享五年
    (一七四八)
下段 延享五年
    (一七四八)
上段 文化十一年
    (一八一四)
時代 光格天皇
   十一代将軍 家斎





黒島神社の石灯籠
石灯籠の歴史
建立 享保三年
    (一七一八)
時代 中御門天皇
   八代将軍 吉宗時代
山田の凱旋門
国登録有形文化財

 この凱旋門は明治三十七・八年の日露戦争に、当時の山田村から従軍した人たちの無事な帰還を記念して、明治三十九年(一九〇六)三月に山田村兵事会が建設したものです。「山田村郷土誌」によれば、山田村からの従軍者は、陸軍八十八名・海軍二十五名、計一一三名であったと記してあります。
 石造りの凱旋門は、鹿児島が誇るアーチ式の石橋技術を応用したものであり、全国的にも大変珍しい貴重な文化財です。
 使われた石材は凝灰岩であり、言い伝えによると、上名の池平から切り出したといいます。昔は各地で石垣用に使われていました。
 また、石工は細山田ケサグマという人だったそうです。
姶良町教育委員会




木津志の田の神
シキ(ワラのすのこ)を被り、左手にメシゲ(飯杓)を持った田仕事姿の田の神像で、やさしい笑顔で空を仰ぎ見ています。
松坂城
 蒲生氏の支城で、深い谷と絶壁に囲まれた山城です。弘治二年(一五五六)中原加賀一族は島津軍に敗れましたが、この戦で城兵の妻娘も絶壁から●●を投げ応戦したといわれ、この地に「●落し」という地名が残っています。










レンゲが満開でした
蒲生のクス
国指定特別天然記念物

樹齢 千五百年
周囲
  目通り 24メートル
  根廻り 33メートル
高さ    30メートル
樹根空洞
  直径  4.5メートル





下久徳の田之神
県指定

三池原の田之神は農民が田の豊作を祈る祭の偶像として徳川中期以降に出現した。この田之神は、明和5年(1768)に造られたもので自然石に浮彫されメシゲと椀を持ち「奉造田之御神庚申講」と刻まれている。田之神と庚申の同体としても珍しく石碑型では県内の代表的な田之神像である。
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