石橋巡り
(2004年4月3日)

1.国分市〜姶良町
(国分小前太鼓橋2基・市野々橋・祇園橋・紹隆寺橋・狩川橋・第二奥山花橋・岩剣橋・塩屋橋)



2.姶良町2

3.蒲生町

4.道中で見たもの




太鼓橋 国分市中央1丁目

用水路
橋長:9.6m
橋幅:2.8m
径間:5.0
拱矢:1.3m
架橋:不明




国分小入口に架かっています。

県道60号線を北上、国分市役所から2つ目の信号を右折、400m左手に国分小学校があります。
太鼓橋 国分市中央1丁目

用水路
橋長:9.8m
橋幅:2.8m
径間:5.0
拱矢:1.5m
架橋:不明

国分小、朱門の前に架かる

朱門
国分市指定文化財
 
「舞鶴城内陣の門であったものを市内重久の細山田家の祖先が領主島津義久公より拝領したものである。
 昭和38年、細山田家から大隅国分寺跡に移転保存されたが、台風のため倒壊した。
 昭和50年、国分市の市制二十周年事業の一環として、当地に復元保存された。」

国分市教育委員会






いやー、びっくりしました、ミニ通潤橋。

この水路が橋を通っています

上部の様子

看板がなければ橋だとは分かりません。

国分小学校から西へ300m、右折300m山手のほうへ左折します(市道梅ヶ谷萩の元線)2.2Km先、大きな市道との交差点を直進し、3Km先に架かっています(途中川原小学校あり)。左手に看板あり。


市野々(いちのの)橋 国分市大字川原

市野々川
橋長:21.0m
橋幅:3.8m
径間:6.0
拱矢:9.0m
架橋:万延2年(1861)

川原田新田と市野々橋(テコバシ)
「新田」とは江戸時代「本田」の成立以後に開発された耕地のことです。島津藩でも万治・享保年間と天保年間以後さかんに新田開発が奨励されました。神殿開発には、藩営による「門地」や私的に開発する「抱地」・「永作地」があります。「川原田新田」の開発は、藩政後期と考えられています。市野々橋の北側にある「水神さあ」に万延二年(1861)の年号と関与した人々の名前が刻名されています。「水神さあ」は灌漑用水を守る神様で、新田開発後建てられたものと考えられます。
萩の元稲元から引かれた用水は、市野々と中間の境では、アーチ式石橋(市野々橋)を通り中ほどに放水門を構えたものです。石橋に用水を構え、下流に水を掛け越すことから「掛越」ともいわれています。「市野々橋」(太鼓橋)の構築についての記録はありませんが、神殿開発に伴って構築されたと思われます。
市野々橋は昭和46年10月に改良工事が行なわれ北側面だけが当時の面影を残しています。

国分市教育委員会





上部の様子
祇園橋 姶良町脇之平

橋長:2.8m
橋幅:4.8m
径間:3.0m
拱矢:1.0m
架橋:不明




国道10号線旧道、姶良駅前から2.2Km南進、県道57号線との交差点から更に100m先を左折、60m先右折地点に架かる。八坂神社横。
紹隆寺(しょうりゅうじ)橋 姶良町平松

狩川
橋長:8.5m
橋幅:2.5m
径間:7.0m
拱矢:4.7m
架橋:昭和9年




旧国道10号線へ戻り、県道57号線を北上。1.1Km先、山崎医院を右折、300m先橋を渡りますが、右手大平寺の方に見えます。
狩川(かりかわ)橋 姶良町平松 奥山

岩剣川
橋長:6.0m
橋幅:5.5m
径間:4.0m
拱矢:1.6m
架橋:不明




現役の橋です。拡幅してあるので、上からは石橋だとは全く分かりません。


紹隆寺橋から県道57号線に戻り、150m左手、田上電器商会手前に架かっています。
第二奥山花(だいにおくやまげ)橋 姶良町平松 奥山

岩剣川
橋長:4.5m
橋幅:2.8m
径間:3.8m
拱矢:1.2m
架橋:江戸末期




狩川橋から山手に300m先に架かる。
欄干は明治時代に修復されたそうです。 下流側より。右奥に鳥居が見えます。





岩剣(いわつるぎ)橋 姶良町平松 奥山
町指定有形文化財

岩剣川
橋長:4.1m
橋幅:2.6m
径間:4.0m
拱矢:1.7m
架橋:江戸末期
第二奥山花橋から100m先、岩剣神社の前に架かる。




塩屋(しおや)橋 姶良町平松

橋長:5.5m
橋幅:0.4m
拱矢:1.6m
架橋:明治7年




二径間桁橋です。

岩剣橋から県道57号線へ戻り、2.2Km北上、剣画堂手前を右折、渕上の先を右折350m先に架かる。
この先行き止まりの看板ありますが、行き止まりの地点です。
これから姶良町2へ

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