石炭と船木
「船木地区では江戸時代の初期から石炭が採掘されていて、家庭用の明かりや調理の燃料として使用されていました。正保二年(一六四五年)に書かれた『毛吹草』には長門国の名物として『舟木石炭』が紹介されており、絵師・蘭学者の司馬江漢は天明八年(一七八八年)に書いた旅日記『西遊日記』の中で、船木では石炭を焚くと記述しています。これらの記録や書物などから、石炭の採炭の様子や船木の人々の石炭を活用した暮らしぶりを垣問見ることができます。江戸時代の後期になると、石炭は塩業用の燃料や蒸気船等の船舶の燃料としても重要視され、採炭地も山陽小野田地区や宇部地区にも広がっていきました。明治元年(一八六八年)に長州藩は宇部・山陽小野田地区の採炭を管理する石炭局を船木宰判に設置しましたが、政府の政策転換により数年で廃止され、その後石炭は民間に開放されていきました。
明治時代以降は、船木地区で中小の炭鉱が数多く出現し、沖田炭鉱・船木炭鉱・上沖炭鉱などが出炭量を増加させて昭和初期にはそのピークを迎えました。船木地区で採炭された石炭は、有帆川の水運や宇部に繋がる船木鉄道などにより運び出し、三田尻塩田の燃料などに使用されていましたが、昭和二十年代になるに従って採掘量が減少して、昭和三十九年(一九六四年)にはすべての炭鉱が船木周辺から姿を消すことになりました。
船木で始まった石炭の採炭は、宇部地区の産業の中心として引き継がれて行き、宇部市の近代工業の基盤となっていきました。」
平成二十五年七月 宇部市教育委員会 |