長慶寺
「真宗、本願寺派。京の権門、三好長慶は永禄十年(一五六七)京都で松永久秀と戦って敗れ、子信之は父の死後西下して、この吉田に辿りつき、奇遇にも瓜生日向守(大友の宿老で、輝弘の大内再興のため秋穂に上陸し、一時山口を奪還したが、敗れ川久保の奥に草庵を結び念仏の日を送る)に接し感化をうけ廃寺香積寺を再興。浄土真宗に改宗して香積山長慶寺の開祖となる(信之は出家して了信)。明治三十三年(一九〇〇)二月の吉田村未曾有の大火災に罹り、本堂は焼失したが、明治四十五年(一九一二)六月門徒その他の寄付に依って再建した。先々代の門主は美禰の正現寺から養子として迎えられ、その後、三好を田邉姓に改めた。
幕末時代は奇兵隊の屯所の一つで、隊の病院として使用されている。『奇兵隊日記』に慶応二年(一八六六)五月奇兵隊第一銃隊、第二銃隊が合併して長慶寺に布陣したと記されている。また元治元年、この寺の従弟に玉雲と云う憎がいて『禁門の変』に参加し、京都で戦死している。」
平成十年九月
第十五世住職田邉康雄 |