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阿川八幡宮神橋
2009.10.25

下関市豊北町阿川

橋長:6.2m
橋幅:2.5m
単径間桁橋
架設:大正11年




阿川八幡宮
「沿革
この村は中世から海上交通・産業安定の地として知られ、村の開発とともに沖田の現在地に八幡宮が勧請された。領主は鎌倉末期から阿川氏三家が代々あり、のちに大内氏・毛利氏の崇敬があった。社家には伊藤家(旧姓今川)と静間家があり、名夫による宮座があった。宮座は七人衆・十二人衆と呼ばれ、御神事に供奉し、正月には歩射を勤めた。のちには警護と称し、土井の衆が神饌の調理や神役を勤めた。神輿は古くから浦の衆がかついだ。現在の祭組に花前がある。
修造
 弘長と応永の年に社殿再建の棟礼があったと伝えられ、のちに慶長十八年に毛利元鎮・元包(のちの吉敷毛利)が再建し、万治二年に毛利就方、寛保二年に毛利広規、弘化二年に毛利親倫(いづれも阿川毛利)が重修した。また明治十七年に現拝殿を再建した。
崇敬
 吉敷・阿川両毛利氏が崇敬を重ね、例祭には名代が参籠した。特に一門の大事には願文を奉り、鳥居・鎧・太刀・額・社領等を寄進した。また領民は雨乞・虫除け等には御神幸を行い、二百十日・田植等にはお籠りを行った。例祭や願成就には歌舞伎・操芝居・角カ・腰輪踊等が奉納された。
維持
 神殿の造修は領主が行い、拝殿の造修は氏子が負担した。祭典は領主と庄屋の沙汰によって行われ、その都度米や紙などの現物が支給された。そのほか領主は年間祈祷料を捧げ、庄屋は例祭前に湯立米や、春寵米を徴収した。」
阿川八幡宮です

側面

親柱

正面