三田尻塩田記念産業公園

2006.07.17

防府市大字浜方381-3




三田尻塩田記念産業公園
「防府市の沿岸では、昔から塩づくりが行われていましたが、特にさかんになったのは入浜式の塩田が築かれた江戸時代からで、長州藩主毛利氏は新田の開発を進め、広大な開作(干拓)の地先に塩田を築きました。
 古浜・中浜・鶴浜・大浜の四ヶ所浜に、江泊、西浦前ヶ浜を含めて、三田尻塩田(六ヶ所浜)と呼ばれました。塩は、米、紙とともに「防長の三白」といわれ、藩の重要な産業でありました。
 当寺、塩田の広さは天明年間(1781〜88)の末に350haに達し、塩は山陰、北陸、北海道に移出され、三田尻塩の名は全国に知られるようになりました。
 明治以後も三田尻の製塩業はますます繁栄し、日本の塩業をリードしてきましたが、時代とともに塩のつくり方やその用途が変化し、昭和34年全面的に廃止されました。
 このように、江戸時代から約260年間、郷土の主な産業として繁栄した三田尻塩田の姿を後世に残すため、鶴浜塩田の跡地を整備して「入浜式塩田」の施設を復元したものです。」

防府市
塩田地場
「入浜式塩田の地場(地盤)は採鹹(濃い塩水をとる)作業をするところで、海水が毛細管現象で表面の砂にしみ込むようにつくられています。
 地盤は四つの層からなり、最下層は『海底の砂』、その上に米つぶくらいの『つけすな』さらに小さいつぶの『張砂』をおき、最上部に『持砂』と呼ぶ粉のような細小の砂を敷きます。
 持砂は入替土、肥土などといい、毎年新しい砂を春先に取りかえていました。
 この持砂の良悪、量の加減は塩のとり方に大きく影響を与えたといわれています。」