萩城
「関ヶ原の合戦の敗戦で、西軍の総大将であった毛利輝元は、長門・周防2国に移封されました。輝元は1604年(慶長9年)日本海に面した長門国の萩に築城を開始し、阿武川河口の三角州を整地しました。萩城は標高143mの指月山の山麓には本丸が築かれたことから指月城とも呼ばれます。城郭の構造は指月山麓の平城の部分と山頂の山城の部分を合わせた平山城の形式で、山麓には本丸・二の丸・三の丸を備えていました。本丸は東西百十間、南北八十間、その南北には内掘を掘りめぐらし、高さ六間の石垣を築いて五層の天守閣がそびえ、内部には藩主の居館や政庁などが立ち並んでいました。内堀に接してその外に二の丸があり、さらに中掘を挟んで広大な三の丸が城下町と外堀を隔ててつくられていました。城跡(国史跡)は指月公園となり、壮大な本丸の石垣や天守閣跡が往時を偲ばせます。」 |