高取伊好(たかとりこれよし)翁
物を開き務めを成した炭鉱王
「高取伊好(1850〜1927・嘉永3〜昭和2)は嘉永3年(1850)、ペリー来航三年前、多久家儒臣鶴田斌の三男として嫩柁屋敷に生まれた。長兄に刑法学者鶴田晧、次兄に炭鉱経営者横尾庸夫がいる。東原庠舎に学び高取大吉の養嗣子となり、邑主多久茂族に請われ長子茂穀(乾一郎)と勉学を共にした。明治初年工部省鉱山寮に入り、鉱山学を修めたのち、当時最も必要とされた炭坑の開発に艇身した。晩年、高取鉱業(のちの杵島炭砿)を創設し「石炭王」と呼ばれ実業界に名をなした。
一方事業で得た富は義捐金、教育基金、産業資金として惜しみなく社会に還元した。号を西渓、法名を自ら「開物斎成務伊好居士」としていた。高取伊好の生き方は、まさに易経にある「物を開き務めを成しとげる」を意とする開物成務そのものであった。
昭和2年(1927)七八才で没した。この像はもともと立像で大正9年村民及び縁故者の寄附で建てられたが、戦時中、供出されて胸像になった。原形は渡辺長男(朝倉文夫の兄)鋳造は岡崎雪馨(東京美術学校教授)によるものである。
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