西渓
(せいけい)公園
2008.09.27

多久市多久町




西渓公園を調べてみます

寒鴬亭(かんおおてい)
「西渓公園を寄贈された、高取伊好翁が附属建築物として、図書館、、図書収蔵庫と共に建てられ寄贈されたものである。
 寒鴬とは、冬のうぐいすの意味である。うぐいすは冬の間はその鳴声も幼く下手だが、春の来るのを待ちながら練習を重ねやがて立派な鳴き方ができる一人前のうぐいすになる。
 多久の人々も学問に励み務め、みんなから喜ばれ尊敬される立派な人になって下さい。・・・との高取翁の顧いをこめて建てられたものである。
 寒鴬亭内には翁直筆の寒鴬待春の大条幅が床の間にあり他横額も数点飾られている。」

高取伊好(たかとりこれよし)
物を開き務めを成した炭鉱王
「高取伊好(1850〜1927・嘉永3〜昭和2)は嘉永3年(1850)、ペリー来航三年前、多久家儒臣鶴田斌の三男として嫩柁屋敷に生まれた。長兄に刑法学者鶴田晧、次兄に炭鉱経営者横尾庸夫がいる。東原庠舎に学び高取大吉の養嗣子となり、邑主多久茂族に請われ長子茂穀(乾一郎)と勉学を共にした。明治初年工部省鉱山寮に入り、鉱山学を修めたのち、当時最も必要とされた炭坑の開発に艇身した。晩年、高取鉱業(のちの杵島炭砿)を創設し「石炭王」と呼ばれ実業界に名をなした。
 一方事業で得た富は義捐金、教育基金、産業資金として惜しみなく社会に還元した。号を西渓、法名を自ら「開物斎成務伊好居士」としていた。高取伊好の生き方は、まさに易経にある「物を開き務めを成しとげる」を意とする開物成務そのものであった。
 昭和2年(1927)七八才で没した。この像はもともと立像で大正9年村民及び縁故者の寄附で建てられたが、戦時中、供出されて胸像になった。原形は渡辺長男(朝倉文夫の兄)鋳造は岡崎雪馨(東京美術学校教授)によるものである。