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新庄八幡神社参道橋

2007.10.08

佐賀市鍋島町大字森田

橋長:1.5m
橋幅:2.7m
桁9列
桁厚:20cm
単径間桁橋




新庄八幡神社
由緒
「当社は第八一代安徳天皇の養和元年(801年前)宇佐八幡宮の分霊を勧請奉祀したもので当時は五社八幡宮とも呼ばれた。文応、弘長の頃異属賊の襲来に備え最明寺北条時頼公西国を巡視し当地で不慮の病に罹り重態のとき、当社に祈願したところ不思議な御利益を得たので、その霊験に感じて社領を奉納し、御家人を置いて後の世まで奉仕されたという。降って永禄十二年(413年前)豊後の大友軍が当地に侵攻して社殿を全焼し更に翌元亀元年八月十九日大挙して今山に陣を張り佐嘉城を一呑みする勢のとき龍造寺家の武将鍋島信生(鍋島藩祖直茂)は奇襲の策を献じて当社に必勝の祈りを籠め、その釣鐘を陣鐘とし勝軍山勝楽寺の林の竹を旗竿に用いて夜襲し、敵の大将大友八郎親秀の首級を挙げる大勝を博した。
 龍造寺隆胤(隆信)がこの神恩に感謝し天正元年社殿を再興したのが今の祠であり、四〇九年の星霜を経たものである。又、鍋島直茂は文禄・慶長の役で朝鮮に出陣の際も当社に参籠して武運の長久を祈願し、華々しい軍功をたて、慶長三年師走凱旋するや翌年の正月十八日(383年前)社領一町歩余を寄進すると共に自ら盛大な感謝の祭典を行い、爾後毎年同じ日に名代を遣わして厳かな神事を行うことを習わしとし明治三年迄続けられた。廃藩置県後明治政府は同六年に郷社に列し、同三十九年には氏子地区内の数社を合祀した。かくて当社の祭典は長い間公費により執り行われてきたが、大東亜戦に敗れ昭和二十二年新憲法の施行と共にその管理、運営は総べて氏子(大字森田、大字八戸溝)の手に委ねられ、今日に至っている。」

新庄神社
鳥居の先に参道橋が見えました

側面

下部

上部

境内の楠