五龍神社
由緒沿革
「当社縁起によれば当地方の長者田中某(今は地名となって残っている)は広く商売を営み、巨万の財宝を蓄え、大船を浮べ大陸と交易したため、かねて海上の平安を祈り、龍神を深く信仰していた。或夜の霊夢により西方の海中から不思議な光を伴い黄金色の霊石を得たので、危難除去の守護神として国家の鎮護と一族の繁栄を祈念し、村の西隅に一祠を建て、五龍社と称した。時まさに今を遡る1421年前のことで、第二十九代欽明天皇二十六年である。このことを知った里人も鎮守の神として崇敬し霊験あらたかなるものを感ずるにつれ信仰の度は益々深まり、のちには与賀神社の摂社として二の宮とも称された。藩祖鍋島直茂公は家臣多久長門に命じて七社明神を配祀し、初代藩主勝茂公は親しく参拝の上、元和年間に社殿を造営し併せて八戸村の田地4丁八反を祭祀田として奉納すると共に松・樟1,000本を境内を中心に植栽奉納した。このようにして藩政時代は神事も盛大に行われたが、藩政奉還による変革で明治六年には村社に列せられ、同二十九年には管内数社を併祀し本日に至っている。」
五龍神社
宮司 松中義行 |