6,486 牛尾神社金毘羅神宮前橋
2013.04.28
|
小城市小城町池上
橋長:0.7m
橋幅:0.98m
桁厚:15p
桁3列
単径間桁橋
|

|
牛尾神社御由緒略記
「御祭神 天之葺根命
当神社は延暦十五年九月九日大和国吉野の里良厳上人、桓武天皇の勅宣を賜い肥前国堡郡実万ヶ里(今に小城郡西郷という。)に下向ありて、山の頂上に若王子大権現を祭り、併せて一院を建て護国神宮寺福長寿院別当坊という、勅に依り日本四別当の一に列す。(第一箱根山別当坊。第二熊野山別当坊。第三牛尾山別当坊。第四鞍馬山別当坊)之れなり。
当山は専ら西海道鎮護の御祈願所として九国安寧の御祈祷を掌れり。その後この僻遠の一霊場が如何に朝野の信仰を博し得たかは延久元年八月欽明天皇の御後胤に当らせられる大覚僧正、花山院第三の宮覚実僧正の御師弟が遥々熊野から降らせ給ふたことや、保元十一年花山院家忠公が一時中絶していた別当坊を再興せられて、琳海親王を別当坊の院主に任ぜられたことによって伺はれる。寿永二年夏源頼朝公が神田二十余町を当山へ寄進せられ同日その臣北条、北畠二氏が各々願文を奉ったことは東鏡(鎌倉幕府日誌)に明記してある。文治元年源平合戦の砌参河守範頼九州に渡り参州豊前の敵を征し筑前の敵を伐つに当り琳海親王は当山衆徒兵三千余騎を以って、熊野山湛僧坊と諜合して豊前日田まで出陣す。平家一族を壇の浦にて殲滅した後天下泰平の御祈願の為に源義経の使者亀井六郎重清を遣はして義経自筆の願文並に義経、弁慶の腰旗、砂金五百両を当山に奉納ありたり。元亀年中鍋島直茂公、大友宗麟の大軍を川上村今山に於いて夜襲の時別当坊琳信一山の衆徒兵を引具して公の軍に加はり名誉の御勝利ありしを以て、勝茂公代より神領十六石三斗七升御改付ありたり。
古来国主領主の崇敬極めて厚く、徳川時代に於いては旧佐賀藩主より華表並に社殿の造当修築等奉納のことはすべて藩費により支弁せられたり。
明治維新に際し神仏習合分離と共に若王子大権現を牛尾神社と改称す。
明治六年村社に列し、昭和十六年郷社に昇格し現在に至る。」
宮司 花薗康行
牛尾神社
「延暦15年(796)の創建。源平の争乱の時、源義経・弁慶の信仰があり、建武中興の頃、後醍醐天皇の信仰があったと伝えられる。別当坊は山伏の拠点ともなった。」 |
 |
佐賀県は2年ぶり、今回は牛尾神社からスタート
|
 |
参道途中の金毘羅神宮前です
|
 |
下から
|
 |
上から
|
 |
上から
|
 |
石造肥前鳥居一基
「佐賀県内に広く分布している石造肥前鳥居は地方色のある鳥居として注目されているが、牛尾神社の鳥居は完構を保つ造立年代の古いものの一つとしてその価値が高い。
両柱に次の銘が陰刻されている
肥前国小城郡牛尾山神宮寺奉造立
石鳥居二柱
国主 大檀那 鍋島信濃守豊臣勝茂朝臣
慶長二年丁酉卯月吉日」
佐賀県教育委員会
|
 |
境内
|
 |
本殿裏の石塔群 |