馬川宗吾霊堂 分霊縁起
「今を遡ること三百三拾有余年前、寛永より承応年間に亘り、佐倉藩(現在の千葉県印旛郡)国家老による暴政により、領民は極度の重税に苦しめられ、百姓一揆の様相を呈した。
この時、割元名主であった木内惣吾郎は、各名主を叫合し、佐倉代官屋敷や佐倉藩の重役に減税の願いをしたが取り上げられず、遂に意を決して四代将軍家綱公への直訴を決行、願書御取り上げの結果、直訴の積みに問われ承応3年(1653)旧暦8月3日公津ヶ原刑場に於て惣吾郎様は磔、お子様4人は打首の惨刑に処せられ領民の為に殉せられました。
のち佐倉藩主堀田正亮公は失政を悔い宝暦2年(1752)百回忌の折、宗吾道閑居士の法号を諡され以来木内惣吾郎は宗吾様と呼ばれるようになった。
明治になり時代の進展に伴い義民宗吾様の犠牲的大精神は日本全土に伝えられた。
この宗吾様の赤心義胆の報に接した馬川郷の人々は沈滞せる農民の意志を鼓舞し、馬川郷の発展を願い、明治22年(1889)代表者を千葉県佐倉に送り、宗吾霊の分霊を勧請し、堂宇を建立して現在地に祀る。
のち農民の守護神として毎年の命日(旧8月3日)には部落民こぞって盛大に供養を営み今日に至る。
尚、分霊の折、境内に植えた藤が百年の大木となり、藤の季節には見事な花を咲かせ、遠来からの藤見の客で賑わっています。
明治22年5月10日下総佐倉より御分霊 御供人
故 川添市右衛門 殿
故 諸熊卯平 殿
昭和63年9月吉日 宗吾分霊百年祭を迎えて」
七山村 馬川区 |