授産社搦
「東与賀の歴史は干拓の歴史です。東与賀が自然的に、また、人為的に陸地化された初めがいつの時代か明瞭ではありませんが、鎌倉時代の末期(1300年頃)は、まだ陸地化していなかったと推測されます。
天文22年(1553年)龍造寺隆信が筑後から佐嘉に帰還した際に、川副町鹿江崎から上陸しており、その時、船津、実久、上町、下飯盛の村長の協力を得た史実かあります。このことから、1500年頃は、上町、下飯盛を結ぶ線が海岸線ではなかったかと思われます。
1600年頃の戦国時代末期になると、作出・住吉・大野あたりまで陸地化されたと考えられます。作出(作土井)は、その名が示すように村の中道が東西に連なる海岸堤防で、この横デー(土居)は作出の西から南に折れて新村の西へ曲がり、住吉・大野へ向かっていました。この堤防は、ウランデー(裏土居)ともいい、櫨の木が植えてあったといいます。
江戸時代になると、藩主の力によって堤防が築かれるようになってきました。江戸時代最大の海岸堤防である松土居は寛永(1624〜43年)から寛文(1661〜72年)の間、とくに1625年頃から1665年頃にかけて構築されたと推定されています。この松土居は川副町犬井道から有明町廻里津に至る長大なかっての潮受堤防で、藩内の土地を有明海の海潮浸入から守り、領内の米の石高を安定させる鉄壁の防衛線でした。
藩政以降の本格的な干拓は、松土居の外で行われました。仙右衛門搦、勘兵衛搦、権右衛門搦というように舫頭名(もや−がしら・組合長)のついた2〜3ヘクタール以内の干拓が多く、これらは魚のうろこ状に並んでいました。
明治時代以後になると、干拓は次第に大型化してきました。明治4年(1871年)には大搦、明治20年(1887年)には授産社搦が起工しています。
大正15年(1926年)には、面積313ヘクタールに及ぶ大授搦が起工しています。この大授搦は、3つの工区から成り、第一工区の起工から約8年の年月を費し、昭和9年(1934年)全工区が耕地化しています。また昭和3年(1928年)戊辰の年に戊申搦46ヘクタールが完工し、さらに戊申搦の南に第二戊申搦55ヘクタールが、昭和37年(1962年)に完成し、現在の東与賀の姿になっています。」
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