後藤又兵衛基次の墓
「戦国の武将後藤又兵衛は、永禄三年(1560)播州で生まれ、父基国は同じ播磨の国、三木城主別所代の家臣で、誠実果敢の重将であったが、又兵衛がまだ少年の頃若くして自刃した。父の遺言により同輩の小寺勘兵衛(後の黒田孝隆)に仕えて心身を鍛え、その心の豪胆さと剣槍の錬術により、名実共に天下に聞こえた勇将となった。天正十五年三月(1587)秀吉の九州征討のとき、第一鋒の黒田勘兵衛について南下し、黒田が豊前中津に入封して国内の土豪を鎮定するとき、城井谷の剛将、宇都宮鎮房を降伏させた功労が大であったという。後、黒田如水、長政父子が筑前博多(福岡)へ入封すると、黒田二十四勇子の猛将として一万六千石を与えられて、大隈城主となったが、黒田親子とも間隙を生じて浪人となり、細川忠興をはじめ諸国の大名から招かれたがこれを受けず、旧主(黒田如水、長政)の邪魔などあってことごとく辞し、大阪の陣が起こると、秀頼の招きに応じ入城、夏の陣では大和方面に出馬して戦功があったが、道明寺河原で討ち死にしたと伝えられている。しかし一説には大阪方面の敗戦の後は放浪の旅で西下し、縁故のあるこの地へ落ちのび隠棲の中で豊臣家再興を期していたが風の便りに豊臣家廃嫡の不運を知り、遂に自刃したと伝えられる。
しばらく時が過ぎて村人は、この自刃した武士が後藤又兵衛であったことを知り墓を建てたが、後に伊福茂助が昔の墓の荒廃を見かねて建てかえたのが宝暦十三年であった。」
中津市教育委員会 |