西光寺

2007.06.24

竹田市大字会々




創建は文禄4年(1595年)
当初は代官町にあったそうです

池田輝政の正室糸姫の墓(池の奥、山側にあります)
「左が糸姫、右が母の墓です。糸姫は岡藩初代藩主中川秀成(ひでしげ)侯の姉で、池田輝敢の正室として嫁ぎました。
 中川家は、秀成の兄秀政が朝鮮出兵で戦死すると、秀成が播州(兵庫県)三木城主となりました。
 秀吉は、朝鮮戦場での秀成の落度を責めて、禄高を減じ、移封を申し渡しました。秀成は岡七万石を選びました。更に秀吉は、家康の娘、徳川督子と輝政の婚姻をすすめるために、糸を離別するよう輝政に命じました。その時、糸と輝政の間には利隆が生まれていましたが、輝政が利隆を時期城主とする事を確約したので離別を承諾しました。
 戦国時代の政略結婚の犠牲になったのです。
糸は、利隆の姫路城主になるのを見とどけ、慶長十年(1605)母と共に大阪の地を離れ岡城へ来藩し、三の丸の屋敷で心安らかな日々を送り一生を終え、西光寺の墓地に葬られました。
 西光寺は、中川家の菩提寺でしたが、のち中川婦女子の寺となり、今でも母娘の菩提を弔っています。」

平成九年四月
歴史と文化を考える会


藩窯小宛焼のルーツ
関羽の像

市指定有形文化財
「九代岡藩主久持侯(1790〜1798)は、中国の書“三国志”に出てくる武帝(ぶてい=武の神様)関羽(かんう)を大層好まれました。
 久持侯は藩士に命じ、備前(岡山)から土を取り寄せ、小宛(おあて=緒方町小宛)で焼かせたといわれています。
 見事な出来ばえであったので、久持侯は大変よろこばれ、今一つ焼かせて、それを江戸に持って行ったといわれています。
 はじめに焼いた関羽像がこれで、領土斉田猪介に下賜されましたが、明治に入って、斉田家より西光寺に寄進され、池の中島に安置して、今日に至っています。
 文化五年(1810)、藩窯である小宛窯が開かれていますので、この関羽像は備前の土ではありますが、小宛で焼かれたところから小宛焼のルーツであると考えられます。」

平成九年四月
歴史と文化を考える会


本堂の右手が切腹の間

本堂の銃眼
切腹までの時間稼ぎのためのものだそうです、このお寺は出城としての役割を果していたそうです