町指定史跡 常忠寺の由来
「大友氏初代能直は、建久七年(1196)豊後の地頭職に補任せられ、大野九郎泰基の反政戦の後、藤北に下向したといわれ、当地は能直と妻深妙およびその子孫が地頭職ならびに所領の管轄にあたった由緒の深い地域である。このことから境内の大五輪塔は能直の墓であると伝えられてきた。
なお深妙の墓堂もこの地にあり、その勤行を営む泊寺と、供養のために風早東西阿弥陀堂が建立されていたと伝えられ、とまりごう、お東、お西の地名が常忠寺の近くに残っている。
後世におよんで戸次氏の菩提所となり、境内の印塔や五輪塔が僅かにその面影をとどめている。天正十四年薩摩軍豊後侵入に際し、鐙ヶ城主戸次統常は一族と共に戸次河原において迎え撃ち戦死、能直公の墓側に葬られてある。また、鐙ヶ嶽城出身の戸次鑑連こと柳川藩主立花道雪は、初陣以来三十七年度の大戦に一度も敗れたことのない文武兼備の武将であった。その重臣は道雪とともに柳川藩に移り住み、当地との交流は深かった。」 |