高寿山 願行禅寺の由来
「天正拾余年(1586)豊薩の陣(大友・島津)により当山も諸堂宇、記録等兵火に罹り全て烏有に帰し、草創の縁起を失った。従って文禄元年(1593)四月此処に茅庵を結ぶ縁により梅岩和尚を開山とする。
第二世仁山和尚の時、寺門を再興(慶長十三年=1608)し中興開山となる。爾来二六〇有余年の星霜を経た明治二年(1869)六月廿六日早朝第十五世壷陵和尚が多福寺(臼杵市)の斉会に出頭し不在中に祝融の災(火災)に遇い方丈・禅堂・庫裡・隠寮・記録等悉く皆焼失す(但し本尊仏像祖像は持出し、鐘楼・山門は難を免れる)。明治二年七月仮本堂・庫裡を住職自弁にて建設、明治八年(1875)二月本堂再建の議が纏り臼杵藩(五万石)稲葉侯の大書院を購入し、直ちに建築に着手し明治十年(1877)十一月完成す(総工費金二千六百余円也の金額は壷陵和尚の自弁也)爾来壱百有余年の星霜を経過すと雖も頑丈に然も優美に現存す。
尚、壷陵和尚は学徳兼備の禅傑(妙心寺無学禅師より印可を受く)にして文人墨客との交遊も広く頼山陽、雲華上人、田能村竹田、帆足杏雨等も縷々来山されたと伝えられている。
本堂内に現存せる御駕籠は藩主稲葉侯より拝領のもので、当時の和尚は城中玄関まで乗り入れを許されていたと云われる。」
第十八世 山主白 |