椿八幡神社
由緒 「椿八幡神社は、宇佐神宮の分祠で、天平神護元年(1765)10月8日、神託によって御在所山に鎮座した。 凡そ260年間に数度の野火に遭い、治安3年(1023)の火災を機に、現在地に社殿を造営し、御神体を安置した。 爾来宇佐神宮の末社への行幸会が、6年に一度執行されたが、元和2年(1616)頃途絶えた。 当時の郷社椿八幡の氏子は小原、上小原、黒津、治郎丸、綱井、重藤、両子、諸田、新、中村、小俣、富永、恒清、久末、油留木、吉松、七郎、一之瀬、武蔵町分(15村)は記載省略、の33村であったが、江戸前期には25村となり、末期には18村となって現在に至っている。鎌倉以後領主は崇敬があつく、特に今市城主の武蔵田原氏は社殿の造営に意をそそいだ。 江戸時代の松平氏は、藩主自ら施主となり、豪商・豪農・庄屋の寄進により造営・修復工事を施工し、庶民は労働奉仕をした。昭和13年(1938)8月27日県社に昇格された。御神木は、治安3年現在地に遷座の際の記念植樹であると伝えられている。」 椿八幡神社社務所 |