角牟礼城跡

2008.09.14

玖珠郡玖珠町大字森




角牟礼(つのむれ)城跡
「角牟礼城跡は標高577mで、古くから石垣のある山城として知られている。天然の要害と呼ぶにふさわしく、三方を切り立った険しい岩壁で囲まれている。
 角牟礼城跡の名が史料に初めて登場するのは、文明七年(1475)の志賀親家文書である。その後、天文二年(1532)や翌三年には“角牟礼新堀之事”や“角牟礼勤番在城”と出てくるように、角牟礼城跡は古くから、豊前側からの侵入を防ぐ豊後の境目の城として、玖珠郡衆により守られていた城である。
 天正十四年、十五年(1585、86)の島津氏と大友氏の豊薩戦では、唯一落城しなかった要害堅固の城として有名でもある。
 文禄二年(1593)には豊臣秀吉が、文禄の役で失態をおかした大友義統を除国し、翌年に日田郡に宮木長次、玖珠郡に毛利高政を入部させた。慶長元年(1596)からは毛利高政が日田・玖珠郡二万石を支配したことが、秀吉の“朱印状”や“黒田家譜”からも知られる。今回発掘調査で発見された門跡や現存する石垣は、この時期に築かれたものと考えられている。従って、この城跡は文禄三年頃、豊後の要の城から、領国支配のための近世城郭へと生まれ変わる時期のものだとみられる。
 そして慶長五年(1600)の関ケ原の戦い後、毛利高政は佐伯城主に転封され、一時黒田孝高の預り地となるが、代わって伊予より来島康親が入部する。しかし、来島は一万四千石の小大名であり、城を持つことは許されず、現在の三島公園に陣屋を築き、山城は“正保の絵図”(1644)に古城と書かれているように、そのまま放置され、長い歴史の幕を閉じることになる。
 平成五年から町教委により発掘調査が行われ、本丸に階段状の虎口(出入口)、大手門と搦手門に同じ規模の門跡、また二の丸には礎石建物が発見されている。二つの門には瓦が葺かれていたと考えられている。」
(伝)三ノ丸跡

搦手門跡
「角牟礼城跡では、南側にある城門で井戸曲輪に入る虎口(出入□)でもある。東側の通路を上り詰めると右手に礎石建物跡が検出されている。礎石は、大手門の櫓門と同規模で瓦や陶磁器から大手門櫓と同じか近接した年代が考えられる。」
玖珠町教育委員会

搦手門跡石垣
「搦手門といわれているが、角牟礼城跡で一番立派な石垣であり、“穴太積み”の特徴をよく残す石垣である。高さ約7・5m、長さ約100mの石垣は自然石を無造作に積み上げられているが、そこには計算されたバランスがあり堅固な石垣となっている。」
玖珠町教育委員会