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涛音寮庭園の石橋
2014.10.18


国東市国見町伊美

橋長:m
橋幅:m
単径間桁橋




涛音寮の昔、歴史、そして由来
「涛音寮は国見町という国東半島の最北端、姫島と連絡している伊美港の近くにあります。遠くを見れば、南は両子山、北は周防灘に面しています。また、古くから国東半島六郷満山(奈良時代は来縄、田染、安岐、武蔵、国東、伊美の六郷からなる宇佐八幡の荘園)の仏教文化の街として栄えていました。古来からの仏教遺跡などの文化財が今もなお数多く点在する歴史豊かな地域でもあります。
 江戸時代末期の頃、伊美を中心にした一帯は瀬戸内海の海上交通の西の拠点として栄えていました。その頃、回船問屋として商売をしていたのが重光伝兵衛という人物です。橋本屋という屋号で、手広い商売をして富みを築き上げたと伝えられています。
 それを示しているのが今も涛音寮に残されている『船仕切帳』をはじめとする様々な古文書類です。これには、船から荷揚げされた物資の種類や量、その行き先などが事細かに記されています。物が動けば、それを扱う人が動き、商売が盛んになり、お金が集まり、財が築かれて行くことになります。へんぴな土地柄であっても、地の利を活かした海運業のおかげで百年を優に越す大きな古い建物があってもなんら不思議ではない富みの基盤がこの頃すでに伊美一帯にはあったのです。
 伝兵衛から代を受け継ぎ、明治の初期、今から140年程前に、橋本屋の主屋として天守閣に似た城造りの木造3階建の見事な建物を築いたのが重光銀九郎です。通称三階屋は、明治初期の建物としては規模の大きな木造3階建です。特長的なのが天守閣のような外観が人目を引く3階部分です。全体的にも三角形状のプロポーションで、見た目の形状の美しさは日本の城郭の美しさに通じるものがあります。この主屋を中心に5つの蔵と使用人の家が取り囲むように建っていました。
 富みの象徴という意味もありましたが、造り酒屋という商売そのものが大規模な設備と多くの人間を必要とする仕事であり、当然そこで働く人たちを収容するにも大きな建物が必要だったのです。かつては手造りの日本酒が一般的で、酒造りの時期になると作業工程に応じてそれぞれの蔵で昼夜の別無く作業が行われていた筈です。
 造り酒屋と言えば大地主、重光銀九郎もまた近隣一帯のほとんどの田畑山林を所有するほどの大地主でした。まだまだ伊美の港に盛んに物資が荷揚げされていた項でもあり、『橋本屋の三階屋』から古町港へ向かう100mほどの道筋は様々な商家が軒を連ねた活気のある商業の中心地でした。それぞれの商家は屋号を待ち、その屋号でお互いを呼び合っていました。今でも涛音寮の周辺を『古町組』と言い、お互いを屋号で呼び合っていることからも華やかな歴史があったことをうかがい知ることができます。
 
『橋本屋』は3代目の時(昭和初期)にはすでに酒造りは止めてしまいましたが、終戦後(昭和中期)の4代目の時代に材木商に進出することになります。当時としては非常に高価な大型トラック2台を購入して事業を押し進めていったのもこの項です。伊美を中心として周辺3町村が合併し国見町になった時などは、トラックに縁起物である『鶴と亀』を飾り付け、大がかりな祝いを催したりもしています。
 地域の中心であった三階屋も時代と共に大きく動く社会的な変動や経済的な激動の大きなうねりの中でいつしか大きく様変わりして行くことになります。
 現在の涛音寮は、正式には純真学園国見研修所・涛音寮として平成9年4月にオープンしたものです。純真学園は純真短期大学等を経営する福岡市にある学校法人で、重光家の親成にあたる福田教南氏が前理事長を務めていました。涛音寮になる以前、純真学園の国東寮になってからのほぼ10年間は空き家状態でしたが、国東半島の芸術・文化の交流の場になればという氏の理解があって、傷んだ三階屋を丸2年を費やし全面的に修復復元したのです。今では国東固有の文化に接することのできる憩いの場として多くの人が訪れるようになっています。」
涛音寮で昼食、たこめしを頂きました

庭園に石橋

奥から

上部