岩戸一里塚 市指定史跡
「一里塚とは、街道の一里ごとにその目印として、道の両側に設置された塚で、例外もあるがふつうその上には榎が植えられ、遠くからも望見でき旅行者の便をはかったものである。
一里は三十六町を原則としており、これは古来六町、四十町あるいは五十町をもって一里とするなどまちまちであったのを天正(1573〜91)年間、織田信長(1534〜82)が三十六町を一里に定めたものを踏襲している。
こうして構築された一里塚は、旅人にとっては里程の目安また日ざしの強い日には木かげの休憩所となった。
一里塚のある道路は、貢祖道路(年貢を運ぶ道)として、また旧岡藩、旧臼杵藩の藩内各組への連絡道として人々の往来に使用されていた道で、通称殿様道とも呼ばれていた。」
豊後大野市教育委員会 |