大原邸の沿革
「『居宅考』に、宝暦の頃は相川束蔵(120石)が住み、東蔵が知行返上後、中根斎(家老新知350石)、岡三郎左衛門を経て、桂花楼となったとあり、御用屋敷桂花楼の場所であったと伝えられる。『町役所日記』によると、天保3年(1832)に大手広場の処にあった牡丹堂に桂花楼は移り、その後は御用屋敷として続いていたらしい。
明治元年の絵図では、大原家となっている。嘉永の藩士帳にみえる用人大原文蔵(200石)の屋敷である。
この大原家が、いつごろから住んだかは不明であるが、文政以降と思われる。表に桁行8間半、梁行2間の堂々たる長屋門を設け、左手には桁行4間半の建物が取り付けられていたらしい。門から敷石伝いに真正面の式台玄関に達する。屋根は寄棟造草葺とするが、入母屋造の屋根を正面にみせた幅2間、奥行1間の式台を構え、当家の格式の高さを示している。式台玄関には、8畳の次の間から鉤の手に10畳の座敷へ通じる。
これら接客部分と裏の居住部分が完全に分離される点も他の家と異なる。
中島をもつ池は大きく、杵築の武家屋敷では最も整った庭園を有することも、当家が普通の武家屋敷でなかったことを物語る。
主屋は御殿の建物を移築したものと伝えられるが、明らかでない。建築年代に関する史料に欠けるが、19世紀中頃以前のものであろう。或は桂花楼時代のものであろうか。
一部を除いて旧状をよく留めており、屋根も残り少ない草茸で、風格をもち、庭園も立派で、杵築に於ける最も貴重な遺構の一つである。」 |