磯矢邸の沿革
「藩政時代のこと、このあたりは『北台家老丁』と呼ばれていました。
この屋敷は、記録(居宅考)によると、宝暦(1751〜1763)のころは、安西源兵衛が住んでいましたが、寛政の大火(1800)の後、御用屋敷(藩主の休息所)である『楽寿亭』の一部に、組み込まれました。
楽寿亭は、文政7(1824)年に廃止されますが、その後、再び武家屋敷になり、明治初年の『藩士居住絵図』や加藤家寄贈文書類の調査から加藤与五右衛門(二百石)の屋敷だったとわかりました。
家屋は、明治以降の増改築部分を除き、文政〜天保期(19世紀前半)のものと思われていましたが、最近の調査で、文久4(1864)年と刻まれた瓦や、元治元(1864)年の棟札などが発見されています。」 |