龍岩寺
2013.11.10
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宇佐市院内町大門
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龍岩寺
「略縁記
亨保二年に作られた木版二股が保存されている
内容は「天平十八年僧行基諸国を修行なされた折宇佐神宮に参籠のみぎり龍女に導かれ大門村仙大窟に到り、当山守護神萬力坊の援助を受け、午の宮の楠の大木を切り一木三体の仏像を一刀三礼にて一夜の内に彫刻し、観音像をも刻まんとせしが鶏鳴暁を告ぐるに及び中止し、此の地を一大祈願所となしたれば衆生来たり縁を結びたり」とある。神仏習合の事実をものがたるものである。
昭和五十年五月二十三日院内町重要文化財に指定
清浄出龍岩寺
平安末期の草創になるものと推察する。
行基菩薩開山祖となり天下国家安穏の為諸堂建立す。
全国四十九院の一院であるので地名を院内という。元天台宗であったが亨保年間、幡龍清谷大和尚の代に曹洞宗となって三世東海活鯨大和尚後に中断して無住の時代があったが大本山永平寺第六十四世勅特賜性海慈船禅師大休悟由大和尚直末開山となる。
天正年間大友宗麟がキリスト教を信してその領内の仏寺をこわした時、当山もその災厄にあってことごとく焼失したが、奥の院は幸いに厄を免れてその本尊も今日に遺存することが出来たと云う。
附近にはその昔、岩窟は天狗のすまいで夜な夜なこの岩窟から天狗があらわれて岩石を投げ村人はなかなか難渋したため僧侶が経座石に坐して日夜読経をつづけ除難の祈念をしたと云われ経座石は現存し経座の地名も残っている。
又、修業道場宝樹庵跡等地名が残っている。
昭和三年田中一松博士調査に来寺仏像三体国宝の折紙をつける。
昭和二十七年仏像および仏壇の修理がおこなわれ更に昭和三十三年に奥ノ院、礼堂の復元修理がおこなわれた。
仏像の優秀さと礼堂の優美さは国内稀有の文化財であり、大分県では富貴寺とともに貴重な存在である。
仏像
昭和二十四年五月三十日国宝に指定
昭和二十五年八月重要文化財に指定される
薬師如来座像(向かって右)一丈二寸
阿弥陀如来座像(中央)一丈
不動明王座像(向かって左)九尺八寸
湾曲豊かな眉、長い瞼、柔らかに沈黙を守る唇、肩から胴へかけてのおだやかな肉取り、細い技巧のみられない実に雄大な姿である。
不動明王の横には刻みかけた観音像のお首がある。十二神将昭和四十九年三月九日大分県重要文化財に指定。
本堂においてある高さ三十糎余の十二休の木像は十二神将と呼び、三仏と同時代の作といわれ愛すべき作品である。
福貴水、乱水、不滅水、飢饉水
礼堂の中右に富貴水あり。富貴水の出る年は豊作。三仏のうしろ、乱水に赤い水の出る年は天地異変があると伝えられている。飢饉水の出る時は凶年不作。
左に不滅水がある。かんばつの時でも、水の絶えた事がない。」 |
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龍岩寺を拝観します
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途中、岩をくりぬいた参道
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右手の萬力坊大権現 |
萬力坊大権現
「大力無双の老翁で行基菩薩が三仏を彫刻する時、何処からともなく現われて、大木を午の宮より仙入窟に運び彫刻を助ける。萬力坊大権現としてまつる。
そぎえたつ 厳を屋根に高々と かけづくりせり これやこの寺
云はんすべ せんすべ知らに立ち尽くし 仰ぎ尽くして 見入るみほとけ
言の葉に 何かは言わんまのあたり ただに仰ぎて 息づく我は
田中一松先生」
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岩壁につくられた参道
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礼拝堂
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礼拝堂
「天平十八年建立弘安九年二月二十二日再建
昭和二十九年九月十七日重要文化財指定
礼堂の優秀さは藤原時代の遺構にして棟木下端に弘安九年二月二十二日再建の墨書銘がある。
三間に二間で床板を懸崖の上に造り敷き、屋根は片流れの板葺である。岩窟の面とこの屋根との間が相当あいているので青白い散光が仏像の上半身にあかるくあたり幽すいな環境にあって、幻想的な効果をつくり出している。
ゆるやかな反りをもった棟木、伸びきった破風等他に類を見ない。」 |
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奥から
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下から
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きざはし
「昭和五十年五月二十三日院内町重要文化財に指定
礼堂の下にある『きざはし』は三仏の残り木と云われ荒削りにして階段とした原始的なもので伊勢神官にその形を止めるだけで国内唯一の遺構である。」
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礼拝堂内
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中央 阿弥陀如来座像
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左 不動明王座像
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右 薬師如来座像 |