羅漢寺
2012.07.07
|
中津市本耶馬渓町跡田
|

|
耶馬渓羅漢寺畧縁起
「当寺は六百四十五年、孝徳天皇の大化元年にインドよリ法道仙人が波来され、地形が釈迦牟尼仏の聖跡耆闍崛山を彷沸させるところに感じ、久しく、この洞中に留まられました。
去るに当って念持仏として捧持された金銅仏一矢躰を残されたのが当寺の始めと伝えられます。後、平安時代には山岳仏教の霊地として天台宗の時期もあった様です。
1337年、後醍醐天皇延元二年、臨済宗祖栄西禅師四代の仏孫円龕照覚禅師が十六羅漢、五百羅漢、の石像を安置し羅漢寺を開かれました。以来臨済宗二十六代を経て、1600年慶長五年に長洲深川大寧寺より鉄村玄策禅師が入山され曹洞宗に改まってから現住職まで二十七代であります。
江戸時代は東照宮をまつり、徳川家より百石を給され、三葉葵の紋章と十万石の格式を許され、毎年正月、全九州大名の城代家老が参集する日田代官所での年賀式では最上席であったとされています。
又曹洞二代伝室玄宅禅師は細川三済公に招されて熊本に行き、水前寺の開山になっておられます。
当寺大開基は足利義満公 中興大開基は細川忠輿公(三済)なお現本堂は昭和十八年類焼に会ったため、昭和四十四年に再興しました。」
山主敬白
中津市観光協会 |
 |
35年以上前に訪れたことがありますが、記憶はほとんどありません
リフトを降りて、「天然の石橋」をくぐります
|
 |
左手に千体地蔵 |
千体地蔵
「寺伝によると、室町期、普覚禅師という高僧がこの千体地厳と十王尊を刻み安置したとされています。
納められている石仏の数は、1100体以上を数えます。
また、舞台が設置されたのは万延元年(1860)で、千体地蔵が安置されてから約五00年後のことです。」
本耶馬渓町
羅漢護寺会 |
 |
千体地蔵の舞台
|
 |
十王尊と千体地蔵
|
 |
千体地蔵から下を望む
|
 |
その先には山門 |
山門
「仁王門と並んで昭和十八年の大火災の難を免れた建物の一つです。室町幕府の三代将軍足利義満により建立されたといわれています。
扁額の『耆闍崛山』は羅漢寺の山号で、禅宗の黄檗の三筆の一人、即非和尚が寛文六年(1666)羅漢寺を参詣した際に書いたとされています。」
本耶馬渓町
羅漢護寺会 |
 |
上から
|
 |
無漏洞(むろどう) |
五百羅漢
「延文四年(1359)逆流建順という偉僧がこの地を訪れ、昭覚禅師とともにわずか一年で七百余体の石像物を建造しました。竣工の際には一千人の憎侶が集まり、開眼供養が行われたといわれています。
羅漢とは釈迦の高弟(位の高い弟子)のことでそれぞれに名前があります。その第一の高弟に位置付けられているのがビンヅル(ビンドラバラダージャ)で、五百羅漢が安置されている無漏窟の外に座っています。これは、ビンヅルがあまりにも明晰で、釈迦の考えていることが全てわかるため、釈迦から敬遠され、外に出されたからだといわれています。」
本耶馬渓町
羅漢護寺会 |
 |
入口
|
 |
内部
|
 |
五百羅漢
|
 |
さらに岩屋を抜けると
|
 |
羅漢寺本堂
|
 |
300円の拝観料を支払い本堂の2階からの眺望 |