熊野磨崖仏
2010.03.06

豊後高田市田染平野




熊野磨崖仏 国指定史跡 重要文化財
「大岩に刻まれた仏は向かって右が大日如来、左が不動明王で、熊野磨崖仏とよばれている。
 大日如来は高さ6.8m、如来にふさわしい端正な顔形で、頭部上方には三面の種子曼荼羅が刻まれている。
 不動明王は高さ8m、憤怒相でなく柔和な慈悲相であるのは他の石仏にみられない珍しい例である。
 六郷山諸勤行等注進目録や華頂要録などにより磨崖仏は藤原時代末期(約900年前)の作と推定されている。
 厚肉彫りの雄大、荘厳な磨崖仏であるため国指定史跡でありながら美術工芸品としての価値が高いものとして国の重要文化財指定を併せ受けたのである。
 伝説では、磨崖仏は養老二年(718年)仁聞菩薩が造立したと伝えられ、近くの山中には“御所帯場”とよばれる作業時の宿泊所跡がある。また参道の自然石の乱積石段は鬼が一夜で築いたと伝えられている。」

熊野磨崖仏管理委員会
30数年ぶりの訪問

不動明王像
「像高約八米、大日如来と同じく半立像で下部はあまり人工を加えていない。
右手に剣を持ち、巨大且つ雄壮な不動明王であり、左側の弁髪はねじれて胸の辺まで垂れ、両眼球は突出し鼻は広く牙をもって唇をかんでいるが、一般の不動らしい憤怒相はなく、かえって人間味ある慈悲の相をそなえており、やさしい不動様である。」


大日如来像
「全身高さ六・八米、脚部を掘ってみると石畳が敷かれ、地下に脚部が埋没しているのではなく、半立像であり、尊名は大日如来と云われているが、宝冠もなく印も結んでいないので薬師如来ではないかとみるむきもあるが、やはり大日如来の古い形ではなかろうか。
頭部の背面に円い光背が刻まれ面相は頬張った四角い顔にとぎすました理知の光と思想の深みが感ぜられ、森厳そのものであるが、また、慈悲の相も感ぜられる。」


鬼の築いた石段
「紀州熊野から田染にお移りになった権現さまは霊験あらたかで、近郷の人々はお参りするようになってから家は栄え、健康になりよく肥えていた。その時、何処からか一匹の鬼がやって来て住みついた。鬼はこのよく肥えた人間の肉が食べたくてしかたないが権現さまが恐しくてできなかった。然しどうしても食べたくなってある日、権現さまにお願いしたら、“日が暮れてから翌朝鶏が鳴くまでの間に下の鳥居の処から神殿の前まで百段の石段を造れ、そしたらお前の願いを許してやる。然しできなかったらお前を食い殺すぞ”と云われた。権現さまは一夜で築くことはできまいと思って無理難題を申しつけられたのだが鬼は人間が食べたい一心で西叡山に夕日が落ちて暗くなると山から石を探して運び石段を築きはじめた。真夜中頃になると神殿の近くで鬼が石を運んで築く音が聞こえるので権現さまは不審に思い神殿の扉を開いて石段を数えてみるともう九十九段を築いて、下の方から鬼が最後の百段目の石をかついで登って来る。権現さまはこれは大変、かわいい里の人間が食われてしまう、何んとかしなければとお考えになり声高らかに、コケコウーロと鶏の声をまねられたら、これを聞いた鬼はあわてて“夜明けの鶏が鳴いた、もう夜明けか、わしはこのままでは権現さまに食われてしまう、逃げよう”と最後の石をかついだまま夢中で山の中を走り、一里半(六キロ)ほど走ってやっと平地に出たが息がきれて苦しいので、かついだ石を放ったら石が立ったまま倒れないのでそこを立石(速見郡山香町)と呼ぶようになった。鬼はそのまま倒れて息が絶えた。これを聞いた里人たちはこれで安心して日暮しが出来る。これも権現さまのおかげと、岩に彫んだ大日さまのお加護であると朝夕感謝するようになった。」