妻垣神社由緒
「元宮 足一騰宮 この妻垣の地は、我が国最古の歴史書『古事記』にも『日本書紀』にも神武天皇がこの地に立ち寄られたことが記されています。
神武東征のおり、宇佐国造の祖、宇佐津彦命と宇佐津姫命の兄妹がお迎えし、足一騰宮を建てて歓待申し上げたのです。
比淘蜷_ 神武天皇がこの地に滞在なさったおり天皇みずから祭祀を行われ母后玉依姫命をここ鑰山(別名−妻垣山)に祀りし、そこを『足一騰宮』と名付けられました。このことより当社の主祭神は玉依姫命であり比淘蜷_は宇佐宮二之御殿に祀られます。このことより当社は、宇佐宮二之御殿の元宮ともいわれています。
八幡大神 宇佐宮の『八幡宇佐宮御託宣集』によれば天平神護元(765)、八幡大神こと八幡大菩薩はこの地に神幸し比淘蜷_と語り合われた、とあります。八幡大菩薩が御神託を下し、勅使石川朝臣豊成に命じて神殿を共鑰山麓に創建させ、比淘蜷_と八幡大神をお祀りしましたのが、妻垣神社のはじまりであります。
神功皇后 天長年間(824〜834)に宇佐宮三之御殿より神功皇后を勧請しお祀り申し上げました。以来、当社は比淘蜷_、八幡大神、神功皇后の三柱の神を祀って八幡杜と号し、宇佐宮八ヶ社の一社となっております。
嘉暦三年(1328)、足利尊氏は武運の再興を願って宇佐宮に参籠し、当社で流鏑馬の神事をとり行いました。
天正九年(1581)、豊後大友軍の兵火によって社殿、神宮寺のすべてを焼失しましたが、その後、中津城主黒田長政公によって社殿が再建されました。
明治十二年(1879)九月十七日、当社は縣社に列せられ、宇佐両院の宗社として今日に至っております。」 |