佐田神社
「祭神は、武内宿祢・素戔嗚尊・大山祇命で、昔は善神王と称し、佐田郷の総鎮守社でありました。鎌倉時代に大友能直によって再興され、以後正中二年(1325)安心院公、文政元年(1466)宇都宮大和の守、文亀三年(1503)に検断所により再興されています。
神殿は元治元年(1864)に改築し現代に至っています。
境内には、県指定有形文化財の板碑や、幕末に賀来一族が建設した反射炉の記念碑や、反射炉に使用した耐火レンガによる塀、大分の先哲帆足万里の書を刻んだ両部鳥居があります。
この神社の東にある標高三〇九九メートルの青山は、中世佐田氏の山城で、県内屈指の規模を誇る町指定の史跡です。境内は、この佐田氏居館跡の推定地の一つとされています。」
安心院町教育委員会
佐田反射炉跡
「当地の旧家『賀来家』は、江戸時代の末に国内で唯一民間で反射炉を建設し、大砲の鋳造に成功しています。
当時、この地は島原藩領でしたが、隣の日出藩の碩学『帆足萬里』の影響が大きく、建設の中心となった『賀来惟熊』と其の一族は日出の帆足門下で、漢・洋学の教えを受けています。
嘉永六年ペリー来航の年に反射炉の建設に着手し紆余曲折を経て二年後の安政二年完成して鋳造が始まっています。
初めのうちは慣れない為、六ポンド砲を四門、十二ポンド砲二門、十八ポンド砲二門の合わせて八門を造るのに二年を要しましたが、最終的には百門を越す数を造ったと云われています。青銅・鉄を溶解する為、西洋文献や佐賀藩への視察等も行い、多大な財と知識を以って完成させています。現在、その反射炉は跡形も無くなっていますが、此処佐田神社の何処かに造られていたと思われます。境内には、『大砲鋳造記』を記した記念碑や神殿裏に耐火煉瓦で造った塀が残されています。」
安々院町教育委員会 |