本光寺

2008.10.13

島原市本光寺町




本光寺山門
「この山門は・深溝松平家六代島原入封初代忠彦公が、生母福昌院殿の菩提を弔うため、元禄三年(1690)ここ丸尾の地(禅林寺の古跡)に建立した浄林寺の山門であります。
 “切り妻流れ屋根造り”の山門として建築学上からも格調の高いものとされ当市で最も古い建造物であります。赤門の由来は従五位下の譜代大名の格式をあらわしたものです。
又、伝によりますと島原城(森岳城)の天守閣の頂上とこの山門の敷居の高さが同じだとされ天守の上に先祖の墓所をもうけたと言われています。」

島原市教育委員会
案内板に誘われてやってきました

本堂

首無し地蔵
「寛永14年“島原の乱”のキリスト教徒は大挙して島原城(旧森岳城)を包囲、その時島原南部寺院の僧の首をはね、槍の穂先につきさしお城大手門へとさっとうした。あらゆる手段をこうじて攻撃を加えたが落城しないので、ついにその時廃城になっていたこの地(丸尾城跡)にたてこもり海岸の船を焼き払い、完全に島原城を包囲したのである。このような状況下で社寺はもとより地蔵様の首はキリスト教徒によってはねられたのである。この中で地蔵様の一体は冠をかぶった将軍地蔵で地蔵様ではないと思ったのであろう御無事です。」

石門の中には十六羅漢窟

十六羅漢石像
「十六羅漢は元文三年(1738)当時の住職実山和尚の発願により藩主忠刻の指示にもとづき、嶺内から十七人の石工をえらんで一人一体づつを刻ませたといわれています。釈尊の弟子大迦葉を中心に左右にに八体づつが安置されています。羅漢像は修行の苦しみと法悦の二相を表現しなければならないとされていますが、その見事な彫刻を見るにつけ彫工たちの苦心のあとがしのばれます。」
島原市教育委員会