弁天山 理性院 大師堂
「この地弁天山は古くは松島と呼ばれ、防波堤のように島原港の入口を守り、宗像社と弁財天を祀る島でした。
寛政4年(1779)眉山の南半分が崩壊した島原大変 の際、崩壊土砂によって現在のような陸続きとなりました。
この弁天山に大師堂を創建したのは、岡山県真庭郡久世町出身の廣田言証師で、師は病弱であったが「跣の請願」(はだしのせいがん)を立て、素足で四国八十八カ所の霊場を巡礼、第五十二番札所太山寺で出家ののち全国仏跡霊地を巡錫しましたが雲仙普賢岳で苦行中に霊感を得、明治28年(1895)9月この地に太山寺教会所として大師堂を開山しました。
師は明治39年年インドの仏跡巡礼の途に上り東南 アジア諸国を巡錫しラングーンのタポイキャナン寺のウセッタ僧正から授けられた大理石の釈迦如来(御丈二尺一寸)を奉持して帰国、明治42年(1909)に八葉の蓮台にあわせた八角形の台山(うてなさん)天如塔を建立して安置しました。
この塔の建設にあたっては、島原半島のみならず 遠くは東南アジアの地に働く「からゆきさん」たちからも望郷の思いを込めた浄財が寄せられ、玉垣の石柱にその名残が留められています。
ちなみに寺号は、昭和4年(1929)和歌山県根来山大伝法院の塔中理性院をこの他に移し、弁天山理性院として現在に至っています。
なお、境内には「十二支本尊」「松島弁財天堂」などがあります。」 |