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桜馬場天満神社の御神橋

2007.08.13

長崎市桜馬場1丁目

橋長:3.9m
橋幅:3.9m
架設:大正13年(1924)




桜馬場天満神社の由来
「当社は大生山宝生院威福寺の開山なる威福院高順にその源を発している。高順の先祖は近江の人で高順は多年天満宮を信仰し一社建立の心願があったが微力のため素志を貫徹することが出来ないので、諸国勧化を思い立ち慶長元年(1595)早岐村に来て在住十余年同十二年(1607)に至り長崎に移住し東中町の筋違橋の辺りに小室を構え信奉する所の天満宮の尊像を安置した。
 高順の天満宮建立は実に長崎市に於ける最古のものである。当時の長崎は吉利支丹宗が非常な勢いをもって宣布されており、神社仏閣破滅後における神社再興の最初である。しかるに吉利支丹教徒はこれを知るや石や瓦礫を投じて社殿を破却せんとしたことが度々あったので高順はこれを拒きこれに堪え同十五年(1610)正月に至り高麗町(現在の八幡町)の竹薮の中に小地を求め此の所に引移ったが、この後といえども迫害は絶えることがなかった。
 その後吉利支丹宗は禁圧され市民もこれまでの高順の篤行に感じて天満宮を信奉する者が多くなったのである。この様な経緯のもと元和8年(1621)3月時の長崎奉行長谷川権六郎は当社に詣で神社の由来を聴き感ずる所があり敷地を長崎村馬場郷なる現在の位置にあたえ社殿の造営を助成し同9年(1622)に工事竣成し遷宮を行うことが出来たのである。
 高順は京都に上り醍醐三宝院門主より大生山威福寺なる山号及寺号を付典された。但し従前は開山の名に依り手て私に威福寺と称していたが、茲に至り手ようやく山号寺号の公称を許可されたのである。時は元禄8年(1695)3月であった。
 爾来当寺は長崎市内と隣接市外になる長崎村(12ヶ郷)との境界に位置していたので、旅の安全を祈る祈祷寺として或は鍋島候を始めとする近国諸侯が陸続として門前を通過するなどおおいに繁栄し明治維新に及んだのである。
 明治元年百事改革によって、先の大生山宝生院威福寺を天満神社と改称され現在に至っており、神社建立以来約390年の歴史が刻まれている。」
二の鳥居の奥に架かっています

正面

神社側から

親柱

上部