聖福寺

2013.11.04

長崎県長崎市玉園町3




聖福寺
「慶応3年(1867)5月22日、いろは丸事件の談判が、この聖福寺で行われました。4月23日、坂本龍馬らが乗った『いろは丸』は、瀬戸内海で紀州藩船『明光丸』と衝突・沈没。その賠償交渉が鞆(とも)の浦(福山市)と長崎で行われ、龍馬は土佐藩士・後藤象二郎とはかり、紀州藩に賠償金8万3000両(のちに7万両に減額)を支払わせることで決着しました。このとき龍馬は世論を味方にするため『船を沈めたその償いに、金をとらずに国をとる』という歌をつくり、長崎の街中に広めたと言われています。」
聖福寺を訪ねました

聖福寺山門 県指定有形文化財 
「聖福寺の開基鉄心道胖は長崎の人。父は陳氏、母は西村氏。本庵禅師に随侍し宇治黄檗真東払方高専で修行しました。長崎奉行と長崎在留唐人はこの鉄心のため一寺建立を企て、延宝6年(1678)鉄心を開基として、この聖福寺が創立されました。
 山門は元禄16年(1703)の建立。堺商人の寄進で棟梁も堺の人。三門形式で持送りなどに黄檗様式の特徴が見られます。」

長崎市教育委員会

聖福寺惜字亭 市指定有形文化財
「経文その他、寺内の不要文書類を焼却するための炉で、惜字亭という名称は大変奥ゆかしい。
れんが造り漆喰塗りの六角形で、築造は慶応2年(1866)7月とされている。
 幕府の要請により、長崎製鉄所建設指導のため、安政5年(1858)長崎に来た、オランダ海軍技術士官によって赤れんがの製造法がもたらされ明治元年(1868)12月に建築された小菅修船場跡(国指定史跡)に現存する曳揚小屋も、その赤れんがが使用されている。この惜字亭はそれよリ2年ほど早く、中国人信徒によって建造寄進された。」

長崎市教育委員会

聖福寺天王殿
「天王殿という名称は中国伝来のものです。中央に弥勤菩薩(布袋)と韋駄天を背中合わせに祀り、左右を通り抜けにした、仏殿と門を兼用する独特の形式を持ちます。中門・弥勒門・護法堂などの別名があります。
 宝永2年(1705)の建築です。棟梁は山門と同じ堺の人です。当時の建物は在留唐人の創立した、興福寺・崇福寺などのような、朱丹塗を基調とする中国建築様式を避け、彩色は扉その他の局部に止め、素木を主体としています。これは鉄心が修行した宇治の黄檗山万福寺の建築様式に倣ったものです。」

長崎市教育委員会
正面に弥勒菩薩(布袋)
裏面に韋駄天が祀ってあります

聖福寺石門
「長崎創生期前に栄えた大寺、崇岳神宮寺は、盛衰を重ね無凡山神官寺として明治を迎えたが、廃仏毀釈のため寺は廃滅、金毘羅神社となった。この時、仏像仏具その他仏寺に関係する一切が撤去されたが、境内に残されていた石門を、明治19年(1886)当寺が譲り受け、現在地に移築した。中央に唐僧木庵筆『華歳界』の文字を刻むが、木庵は明暦3年(1657)崇岳山頂の絶景を賞して『無凡山』と題し大書した。それが山頂の巨石に彫られているが、この石門もそのころの建造と推定されている。」
長崎市教育委員会

聖福寺大雄宝殿
「釈迦(大雄・だいおうの読みもある)を本尊として祀る仏殿。正徳5年(1715)に改築されたもの。棟梁は長崎の人。色彩は扉その他の局部にとどめ、素木を主体とするが、細部に黄檗建築の特徴を表わす。正面半扉の浮彫り彩色の桃が珍しい。石造基壇上正面の朱塗り勾欄(手すり)は他に崇福寺媽祖堂の例があるだけである。
 屋根の釉薬かけ瓦は肥前武雄産であり、長崎では他に例がない。」

長崎県教育委員会・長崎市教育委員会
大雄宝殿の鬼瓦、屋根は肥前武雄産の釉薬かけ瓦
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