丸山花街跡

2008.05.04

長崎市丸山町




長崎丸山華街(花街)跡
「この場所は江戸時代、丸山遊郭の東端に位置し、背後の石垣は遊郭が塀や石垣で囲まれ隔離されていたことを物語る。又、この石垣の下の通りを岸の下と称す。
 丸山は長崎開港後の慶長年間(1596〜)、初めはこの付近に三軒家と呼ばれる遊女屋が建っていて太夫町と称していた。(その頃の遊女“音羽”“高尾”が諏訪神社に踊りを奉納したのが、くんちの初めと言われる)その後、官令により改めて丸山を開き市中の遊郭を1ヶ所に集めたのが寛永19年(1642)、今から360年前のことである。
 当時丸山は江戸の吉原、京の島原と並ぶ日本三大遊郭“三場所”の一つであり、大変な賑わいであったことは言うまでもない。江戸の文学者井原西鶴は、実際長崎へは訪れていないが『長崎に丸山といふ所なくば、上方の金銀無事に帰宅すべし』と唄う程であった。
 記録によると、延宝時代(1673〜)には遊女屋74軒、遊女766人、全盛期の元禄時代(1688〜)には1443人の遊女がいた。
 丸山の特徴として、遊女には主に長崎の町民や上方の商人たちが多く出入りしていたが、丸山の遊女が唐人屋敷や、阿蘭陀屋敷(出島)の出入を許されていた為、唐人や阿蘭陀人(紅毛人)との交流があったことが他の遊女と異なる点である。そのため遊女を日本行き、唐人行き、阿蘭陀行きとあえて区別をしていた。この丸山だけは日本はおろか海外にまで名の知れた国際的な遊里であった。遠く祖国を離れ長崎にきた外国人にとって丸山の遊女たちは淋しさを癒す何よりのものであったであろう。まさに国際的コンパニオンである。彼女らなしでは長崎の繁栄はなかったといっても過言ではないだろう。遊女について“丸山の恋は一萬三千里”と唄われた。
 しかし、丸山は昭和33年(1958)の売春防止法により、その火が消えた。そこから40余年時が流れ今ではその歴史さえ消えつつあります。今回長崎の歴史上、出島と並ぶ由緒あるこの丸山の地を多くの人に再認識してもらいたいために、この解説板と華街跡の碑を建立しました。これは花街丸山から歴史の街丸山への転換点であり、また陰の日蘭交流400年記念でもあります。」

平成12年4月
長崎史談会幹事 山口広助