雲仙市神代小路重要伝統的建造物群保存地区
神代小路(こうじろくうじ)の沿革
「雲仙市国見町神代地区は、長崎県南東部、島原半島の北部にあり、島原市より約16km、諌早市より約26kmの距離に位置する。雲仙山系の主峰雲仙普賢岳を起点として北に広がる肥沃な台地と有明海の恩恵を受けて栄えてきた。
神代の名は南北朝期に神代貴益の入城に始まると伝えられている。神代は島原半島と佐賀を結ぶ海路の要所であり、戦国時代末期には有馬・龍造寺の佐賀領藤津郡をめぐる覇権争いの中で苦悩する神代氏の姿が窺い知れる。神代貴茂は島原半島に進出した龍造寺氏に与したが、天正12年(1584)、島津・有馬連合軍と激突した沖田畷における龍造寺隆信の戦死により、神代氏も歴史から姿を消すこととなった。
慶長13年(1608)、神代郷は鍋島豊前守信房(鍋島直茂の実兄)の所領となり、明治2年(1869)の版籍奉還まで続く神代鍋島領が成立した。
維新後の神代小路は、屋敷跡への小学校や村役場の立地、鍋島邸の改築による近代和風住宅の建設などの変化が生じたものの、今日まで鍋島家を中心に地域住民の手によりその景観を今日まで守り伝えてきた。屋敷割・道路網・水路網といった基本構成と武家屋敷の建造物群が、地区を取り囲む、みのつる川、神代城(鶴亀城)跡とあいまって自然豊かな落ち着きと安らぎを醸し出す歴史的風致を伝えている。
神代小路の特性
佐賀に居を構えていた領主鍋島氏は、寛文3年(1663)に跡を継いだ4代嵩就の代に至って居を神代に移したとされ、旧神代城二の丸膝下の東側に陣屋館を構え、現在の小路地区が整備されたと推測される。
神代小路東側のみのつる川沿いには豊かな屋敷林が展開し、神代川に面した北側にも樹林が展開していたことが資料から窺うことができる。集落は横町小路・本小路・上小路・今小路・安光小路の道筋によって区画される。さらに、環濠集落としての神代小路には3箇所の構が架けられ、内部には枡形が配されていた。とりわけ横町小路への出入り口は大手口にあたり、高欄付石造桁橋の天神橋や神代神社、巨木からなる景観を呈し、大手口に相応しい風格を擁していたことが各種の古写真から窺える。
西側に位置する神代城は元和の『城割剖』によって城本来の機能は失ったものの、城の膝下に設けられた陣屋館と古城のもつ要害機能とあいまって神代小路武家屋敷群の構成要素として機能してきた。これらの織りなす武家地特有の閉鎖的空間と現存する歴史的景観、さらに今日まで伝統的地域共同社会が緩やかな絆をもって息づいている点に、他に類を見ない特性が認められる。」 |