御書院
「一、御書院がある県立諫早高等学校の敷地は、戦国時代初期(1500頃)に諫早地方を領した西郷尚善が屋敷を構えたところだといわれています。
その後、天正十五年(1587)に西郷氏にかわった龍造寺家晴によって壮大な屋敷が構えられたといわれています。なお、二代目領主直孝の時、“諫早氏”に改姓されました。
明治維新以後も諫早家の所有でしたが、大正十一年(1922)県立諫早中学枚が開設されることになり、諫早家より約33,000平方メートル(一万坪)を学校用地として寄付されたものです。
一、諫早図書館に保管されている江戸時代後期の絵図では諫早家の屋敷の中に、大きな建物が九棟ほどみられ、御書院は庭園の池に面して建てられております。御書院は佐賀藩主の接待など公式行事に使われていたことが諫早家の記録“日新記”などの中にみることができます。
一、御書院の庭園は、南側の小野用水幹線水路(本明川山下淵公園堰取水)から水を引き入れ、流水式の池が造られております。その特徴は、熊本の水前寺公園や岡山の後楽園のように、正面に芝山を築き、樹木を配置し、中ノ島に石橋を架けるなど池を中心とした、江戸時代に多く造られた回遊式庭園といえるものです。
庭園には、樹齢四〇〇〜五〇〇年のクスの大木が繁り、諫早にとって昔を偲ばせる貴重な文化遺産といえます。
一、庭園は、大木の繁りと水量の豊かさで、鳥類の絶好の住処であり、昭和六年(1931)に『おしどり渡来地』として国の天然記念物指定地となりました。当時、おしどりを驚かさないよう煉瓦塀を回らせて、塀の覗き穴から池に浮かぶおしどりをソッと覗いていました。
静かな水辺と常緑樹林を好むので、おしどりにとって庭園は優れた環境でした。
しかし、昭和十年代後半、軍需工場が諫早公園に疎開してきたため騒々しくなり、おしどリは来なくなりました。さらに昭和三十二年(1957)の大水害で池が土砂に埋まったため、昭和三十四年天然記念物指定地を解除されました。
御書院と高城回廊の整備
御書院は、諫早高校の静かな教育の揚でありますが、市民からも庭園の良さにふれたいという声が数多く寄せられていました。諌早市では平成十五年度、長崎県教育委具会・諫早高枚の協力をいただき、諌諫早園・諫早図書館・市役所など市中心部を周遊する『高城回廊』の再整備の一環として、諫早の歴史・文化を市民に伝え親しんでいただくために、散策路の整備を行ったものであります。
庭園の面積は、約六、七〇〇平方メートルです。
●諫早の文化遺産を心静かにお楽しみ下さい。」 |