大雄寺の五百羅漢像
県指定史跡
「元禄12(1699)年8月13日、本明川の大洪水により諌早領は死者487名、稲3930石が減収という大きな被害を受け、翌年は逆に大干害で田畑は荒れ、人々は2年続きの災害のために苦しみ、領内には食物に飢える人が多く出ました。
このため、諌早家第7代茂晴公は、災害による犠牲者の冥福を祈り、また今後の災害を除くため、ここ水源の地・富川峡谷の岸壁に五百羅漢を刻むことを発願しました。
長崎・大村・島原などの寄進を受け、元禄14(1701)年に製作にとりかかり、宝永6(1709)年に完成しました。
下絵は神代村常春寺の僧志元、彫刻は矢上村の石工鎌山甚兵衛、田結村の石工森与四衛門等によって行われました。
磨崖仏としては、県内随一のものであり、諌早の水害史を物語る資料として大変貴重なものです。」 |