聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂

2006.11.19

平戸市鏡川町




正面

ルルド
「ルルドは南フランスのピレネー山脈の山麓にある町で、聖母マリアはこのルルドで少女べルナレッタに現れた。
 1858年2月11日から4月7日まで、合計18回にわたりご出現し、『私は無原罪の御宿りです。』と名乗られ、また、『罪人のために祈りなさい。』と言われた。
 また、しるしとして多くの奇跡があり、特に聖母に言われた所を掘ってみると泉が湧き出し、その泉の水を飲み、身体を浸した病人が治るなど多くの奇跡が今も続いている。今ではルルドは、全世界から多くの信徒が訪れる有名な巡礼地となっている。
 平戸ザビエル記念教会は、献堂75周年とザビエル生誕500周年を記念し、人々を信仰へ招き、信徒の信仰を養う場、そして、聖母マリアに対する信心から、その洞窟に似たこのルルドを建設し、祈りの場とした。」
2006年4月


南側

内部

聖フランシスコ・ザビエル記念像
「東洋の使徒、偉大な聖者として世界の人々に尊敬されているフランシスコは1506年4月7日スペインのナヴァラの貴族の子として生まれた。
 彼はパリー大学在学中『人は全世界を掌にすることができても、その魂を永遠に滅ぼすなら何の意味があるか』(マタイ十六の二六)という聖句を沈思黙考、人間の幸せは愛によって神に結ばれ祝福される生き方にあることを悟り、既に約束されていたパリー大学教授の地位と一切の名誉から離れ、同志とともに修道会(イエズス会)を創立しキリストの教えを伝える一介の伝道者になった。
 インド各地の伝道の後、1549年8月15日多難な航海を経て鹿児島に上陸、日本に初めてキリスト教と∃−ロッパ文化を伝えた。
 翌年聖師は平戸に来島、藩主松浦隆信の歓迎を受け、教えを説き多くの信徒を得た。その後山口京都などに伝道しながら、その間二度も平戸を訪れた聖師は余程平戸を愛したのであろう。
 ここに聖師の記念像を建立し1971年7月18日除幕祝別し、教会も聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂と改名された。」


平戸殉教者顕彰慰霊之碑
「聖師ザビエルによって平戸に種まかれたキリスト教は驚異的に信徒の数を増し、ザビエル来島の翌年(1551年・天文10年)には日本最初の教会がこの平戸に建立された。以来今日まで四百有四十年の歳月を経たが、この間幾多の過酷な迫害もあり、1559年には宇野殿の家臣某は棄教を拒み、又マリアおせんという女性は主君から禁じられていた十字架の丘への参拝をやめないという理由で斬首された。この人たちが数多い日本のキリシタン殉教者の初穂である。
 1587年、豊臣秀吉の禁教令発布で平戸の殉教者は激増した。度島・根獅子・生月・田の浦・薄香・中江の島・川内浦等で殉教した信者の数は四百人を越えると伝えられる。
 尚、殉教地は大村・長崎西坂と違ってはいても世界のキリスト書から『聖人』に次ぐ『福音』の称号で尊崇されている平戸出身の方々が多いのは特記に値するものであろう。
 セバスチアン木村神父(日本人最初の神父)(日本人最初の修道士は平戸白石生まれのロレンソ)レオナルド木村修道士、アウグスチノ木田修道士、トマス・ロザリオ、アントニオ・キューニ両神学生、アントニオ・木村、マリア・ガスパレル籠手田などがそれである。
 平戸教会では現存の教会献堂五十周年に当たりこの碑を建て、殉教者=生命を捧げてキリストの証人になった人=の偉大な信仰をたたえ、子孫の模範とした。」

平戸市


以上 2006.11.19撮影


7年1ヶ月ぶりの訪問
駐車場があるのを忘れており、市役所横に駐車して歩いて上って来ました

階段横のルルド

内部

ここは撮影禁止ではありません

西側

光明寺から
以上 2013.12.22撮影