日本二十六聖人乗船場跡

2007.08.16

東彼杵郡東彼杵町彼杵宿郷




日本二十六聖人乗船場跡
「日本二十六聖人、それは、西暦1597年(慶長2年)2月、長崎の西坂でキリシタン宣教師、信徒であるという理由で処刑された、日本最初の殉教者である。
 スペイン人のフランシスコ会司祭ぺトロ・パウチスタはマニラで布教ののち、フィりピン総督の使命として1593年来日、肥前名護屋の朝鮮陣本営で豊臣秀吉と会見するなど日比通商条約締結に努力したが、サン・フェリペ号入港事件を契機とする、豊臣秀吉のキリスト教禁教令の強化により、京都、大阪のキリシタンとともに捕えられた。
 豊臣秀吉は、殉教者達を厳しく罰することで人々へのみせしめにしようと陸路を徒歩で、或は馬で、1日約7〜8里とゆっくり歩かせた。
 1月9日、堺を立った24人のキリスト教信者達は、堺、姫路、岡山、広島を通り、1月31日博多に到着。翌日、肥前名護屋近くの村、山本で捕われ人は26人となり長崎へと進んだ。やがて、苦しい登りの道を越えて大村領の俵坂峠にたどり着くと、足もとに湖のような静かな大村湾の素晴しい景色が広がっていた。
 そこで休息したベトロ・パウチスタは、岩の上lこ腰をおろして黙想した。今…死地へ向かって進んでいる。しかし、自分が全身全霊を傾けた布教は始めたばかりなのに、それを継ぐぺき同僚までも共に死んでいく。ペトロ・パウチスタがすべてを捧げた仕事は、がらがらと崩壊していくかに思われ、とめどもなく涙が落ちた。
 昼を少し過ぎたころ、殉教者達は彼杵へはいった。やがて、殉教者のうちフランシスコ会士以外は皆手を縛られ、彼杵の浜辺に降りると、そこは三艘の船が繋いであった。それぞれの船に乗船させられた殉教者達は、水路時津へと向かった。空には、残月が光り始め、岸のあちこちに漁村の灯火がまたたき、舟は、単調な櫓の音を響かせながら、静かに水面を分けていった。翌2月5日、26人の殉教者達は、長崎西坂の地で処刑された。
 1862年6月7日、荘厳な祭典のうちに教皇ピオ九世は、西坂の26人の殉教者を聖者の列に入れた。
 この日本二十六聖人乗船場跡記念碑は、この殉教者の残した足跡を記念するため、1986年、多くの人々の協力で建設されたものです。」

東彼杵町
記念碑