島津寒天工場跡
2005.10.23

山之口町山之口1640番地




島津寒天工場跡
「幕末(文化文政)の頃、島津藩の財政は非常に困窮していました。時の家老、調所笑左衛門広郷は指宿の豪商、浜崎太平次と計り財政再建策としてこの地に寒天製造工場を設けました。最盛期は、三世太平次が支配人に任ぜられた安政元年(1854年)から明治4年(1871年)ごろまでであったと思われます。この地を選んだのは寒天製造に適した自然条件を兼ね備えていた事、幕府役人の目から逃れるためでもあったと思われます。
 原料のテングサは、甑島を中心に薩摩西海岸から運ばれ、製品は馬で福山港に運び、さらに大阪、長崎に運ばれて中国(清)、ロシア等に密輸されたようです。
 また、監督者や技術者等は鹿児島から派遣され、西目地方(指宿・伊集院・伊作など)からの出稼ぎ者約80名、地元採用者約50名を合わせた従業員数は約120〜130名であったといわれます。
 現在、9基の窯跡を見ることができます。」

都城市教育委員会