正念寺

2013.09.01

西臼杵郡高千穂町上野




沖縄学童疎開正念寺組宿所跡
「昭和19年9月13日、沖縄県豊見城村第一国民学校から、学童75名(他付添人4名、家族4名)が、大小堀松三先生と宜保信子先生に引率され上野村に学童疎開として到着しました。上野村では楽隊を先導に村を挙げて出迎えました。
 子どもたちは、宜保先生の学校組と大小堀先生の正念寺組とに分かれ、一緒に寝起きしながら、上野国民学校に通い村の子どもと一緒に勉強しました。
 南国育ちの子どもたちには、上野の山や川、初めて見る氷や雪など見るもの全てが珍しく大喜びでした。しかし辛いこともいっぱいありました。
 運動会の日に、米軍の大空襲で沖縄が壊滅状態との知らせが届き、先生にすがりつき泣きました。夏服で来た子どもたちにとって、上野の冬の寒さは余りにも厳しく、霜焼けやあかぎれが崩れ、その痛さをこらえながら雪の人夫坂を越えての通学は一層辛いものでした。
 このような辛い疎開生活ではありましたが、寺の住職さんと奥さんは、村人への食糧や衣服の提供の呼びかけや宿所の改善等、我が子同様に親身になってお世話をされたそうです。子どもたちも住職さん夫婦を『お父さん』『お母さん』と呼び親しみをもって接していたそうです。
 寺での疎開生活は、家族と離れ、寂しい辛い毎日でした。夕暮れともなるとどの子も寂しさがつのるのでした。そんなとき、寂しさをまぎらわしお互いを励まし合おうと、寺の山門の石段に座り南の沖縄を向いて『さらば沖縄よ!また来るまでは!・・・』と涙ながらに引率の先生と一緒に毎日歌ったそうです。
 悲しいことに、終戦後に赤痢が流行り大小堀先生の幼子がこの地で亡くなったそうです。後日の先生の回想録には、『せめて引率学童でなく我が子でよかった。』と結んでおられますが、どんなに辛かったことでしょう。
 平和を願って、この学童疎開の歴史を、次の世代を担う子どもたちに語り継ぎましょう。」

平成12年9月
上野小学校郷土史班
以前も通りかかった正念寺

山門

天保二年(1831)の燈籠

本堂