天ヶ城
「慶長五年(1600年)第17代島津義 弘は、関ヶ原の合戦に敗れ、日向細島を経て帰国途中、八代(現国富町)に宿泊しました。
関ヶ原天下分け目の合戦」と全国が見守ったこの合戦で、徳川家康の勝利が全国に知れ渡ると、島津氏と長年戦ってきた伊東家の重臣、清武城主、稲津掃部介
は、「島津氏を滅ぼして伊東氏の旧領を取り戻すのは、この時期以外にない。」と考えます。稲津は、即座に兵を率いて、宮崎を平定北進し、佐土原城下に迫
り、その一部は、義弘が宿泊している八代に向かって進軍しました。
それに対して、島津領内の近傍の領主達は、取るものも取りあえず、八代へ兵を進め、ようやくこの島津の兵をくい止めると、義弘は、兵数十名を引き連れて
八代を脱出し、かろうじて鹿児島にたどり着くことが出来ました。
義弘はこの事件を経験して、国境警備の必要性を痛感し、伊東氏に備えるため、久津良名(現高岡中央部)の一部を城地に取り立て、城を「天ヶ城」と命名
し、島津氏と関係の深かった地域から武士多数を強制移住させました。そして、比志島紀伊守国貞を初代地頭に任命し、「高岡」を前線の要としました。これ
が、高岡郷の創設とされています。
その後、元和元年(1615年)に一国一城令が布かれると、天ヶ城は廃城となり、城にいた武士達は、全員城を引き払い、麓(現高岡市街地)に下り住みま
した。
天ヶ城は、山の自然の地形を上手に利用した山城であったと言われています。」
宮崎市教育委員会 |