高岡麓と石垣、武家門
「この武家住宅周辺一帯は江戸時代に『高岡麓』と呼ばれていました。高岡麓地区は第十七代島津家当主 島津義弘の命により、関外四中外城(高岡、綾、穆佐(むかさ)、倉岡)の防備のために慶長六年(1601年)頃から建設が始まりま
した。高岡麓の町割は直線街路を主体とし、矩形(くけい=長方形の意味)街区を目指した計画的なものであり、薩摩藩の麓のうち初期の計画的街路形態を示していると考えられています。
高岡麓では、地頭仮屋(現高岡小)を中心に、その周辺に武士団が集任していました。現在も石垣や武家門等が残っていますが、高岡では石垣を用いることが許されず、屋敷の周囲は竹垣で囲うこととされていました。石積みが許されたのは嘉永年間(幕末の頃)であるという言い伝えがあり、殆どが切石整層積で比較的新しいものです。石垣は『高岡石』で近くの山から採取した柔らかく加工しやすい石が使用されています。武家門は明治初期には二十八基あったと言われていますが、現在では半数以下となっています。」
武家住宅
「現在、高岡(天ケ城)麓地区には『長野家』『本吉家』の二棟の武家住宅が残されています。この敷地には、平成十七年末まで『吉冨家』という武家住宅がありましたが、老朽化により取壊されました。その後、現地点より東約300mに建っていた『本吉家』が売却されるのに伴い、平成十八年に歴史的資産の保存と地域交流施設としての活用を図るために宮崎市が建物の寄付を受け、当地に移築したものです。平面形式や部材から十九世紀初めには建っていたと考えられています。この敷地にある二つの武家門は東側が従来からある『吉冨家』の武家門、南側が移築した『本吉家』の武家門です。
【麓】外城のうち、戦国期の山城の麓に集住した武士団の居住域のことを指し、軍事・行政の中心地を言う。
【地頭仮屋】軍事・行政を管轄するところで麓の武士たちにより政務が行われていた。参勤交代などの宿所としても利用されていた。
【外城】防衛の役割を果たす砦を造らずに『人をもって城となす』という薩摩藩の制度」
平成二十二年四月
宮崎市 |