黒水家住宅

2014.04.20

児湯郡高鍋町上江




黒水家住宅の沿革 高鍋町指定有形文化財
「黒水家は、高鍋藩の兵法家としての家柄である。越後流兵学の大家佐久間入道頼母が高鍋に下ったのは、元禄6年(1693)のことで、黒水次右衛門はこの頼母に師事し、元禄14年4月3日に兵学の免許をうける。
 黒水家住宅は、高鍋藩主秋月氏の家老職を勤めた黒水家の家で家老屋敷と呼ばれ、主屋・籾蔵・みそ蔵・土蔵が建ち並び、前面に土塀が建ち武家屋敷としては貴重なものである。
 主屋は鍵屋敷になった寄棟造り茅葺で玄関から上り左に居間をとり右へ順に10畳の控の間、8畳の次の間と続き、本格的な床、書院をつけた風格ある上の間が鍵となって前方につきだしている。
もともと台所部分は別棟になって後方に接続していたと思われる。このように一部改造はあるが数少ない武家屋敷であり、建築年代はこれを示す明確な資料を欠くが、構造形式等からみて文化・文政の頃(1804〜1830)のものと推定される。
 籾蔵は、藩政時代に藩の籾蔵として高鍋城内に建っていたものを明治初期に譲りうけ移築したもので、西南戦争の際に秋月種節をはじめ九烈士が薩軍によって監禁された建物である。
 その他、みそ蔵はみそなどをつくり貯蔵し、土蔵は重要な品物を保管するために使用した。
 茅草屋根をもつ武家屋敷としては県内でも極めて重要な文化遺産である。」
黒水家住宅を訪ねました

門をくぐると突き当りが玄関の間

籾蔵
籾蔵
「明治十年西南戦争の祈り薩軍に好意的でない九人を閉じ込めた仮牢である。
 この建物は藩政時代の籾蔵で、現在の高鍋農業高校のテニスコートのところ(明治になって郡役所)に建っていたのを黒水長慥が求めてこの地に移転されたものです。」


左回りに周囲を回ってみます

上の間外部

次の間、納戸

味噌蔵と土蔵

籾蔵北西側

居間、畳縁はありません

玄関の間

控えの間(手前)、次の間(奥)

上の間(神棚・床)

玄関の間から

門柱は珍しい中国様式