高城町郷土資料館

2014.08.13

都城市高城町大井手




日和城
「この城は、今から六五〇余年前、肝付兼重が築いたもので、当時は兼重本城といわれました。兼重は、この城に、南朝方から受けた錦の御旗をひるがえし、北朝方の畠山軍と戦い、孤軍奮闘しましたが、延元四年(1339)八月、力つきて落城、兼重は高山へ退きました。その後は日向守護職の畠山直顕のものとなり、高城とよばれ、月山日和城ともいわれました。畠山氏のあと和田氏の居城となり、さらに島津氏の領となつたが、明應四年(1495)伊東氏との飫肥・三俣の交換によって、伊東氏のものとなりました。
 都城の北郷忠相は、47年の長い間かかって、やっと伊東氏を追いはらって、ここを居城としました。戦国時代の終りには、伊集院氏の領有となり、庄内の乱では、この城下で激戦がくりかえされました。
 乱後はまた北郷氏のものとなりましたが、元和元年(1615)一国一城の令によって、戦火を重ねたこの城も廃城となりました。
 南北朝の争乱から、戦国時代を経て、庄内の乱まで約160年間、三俣千町といわれた美田の要地として戦火に包まれた歴史をもつ、全国にも例の少ない山城です。
 城の構えは、後方の台地から突出した要害の地に、空堀にしきられた八城郭からなり、約四ヘクタールの広さです。
 伊東八外城時代には、ここを中心本城として、山之口城、松尾城、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城として、扇形の雄大なかまえでした。
 昭和10年の陸軍特別大演習には、野外統監部となり、昭和天皇がここにお立ちになり、演習をごらんになりました。」

高城町むらおこし実行委員会
高城町郷土資料館で「高城町史」を購入しました

展望台からの眺め

大正、昭和期の消防ポンプ

郷士のくらし

工人のくらし

唐箕