湯の宮座論梅
2005.02.26
|
児湯郡新富町大字新田
|

|
湯の宮座論梅 国指定天然記念物
「この梅林は、その昔、神武天皇御東征の際この地においてお湯を召されご休憩の後、梅の枝を突きたてたまま、お立ちになりその後、これが芽をふき元木となり成長して今日に至ったものと伝えられている。 座論梅という名の起こりは「ザロミ」という梅の種類から名付けられたとも、また徳川時代に佐土原、高鍋両藩の間に梅林の所有争いが起こり、両藩士がこの地で出会い座して論議したので座論梅となったものとも伝えられる。 この座論梅は、元は一株であったものが横に伸び地について新しい株となり次々と繁殖して、現在八十株になったものである。」 新富町教育委員会 新富町観光協会
|
湯の宮座論梅 国指定天然記念物
「■湯之宮座論梅の概要
湯之宮座論梅は新富町大字新田字湯之宮にある梅園です。1本ごとの梅の樹齢はそれほど長くはなく、老木になると幹が倒れる臥龍性があり、元は1本の古木から周囲に株が広がったといわれています。
花は白の一重でやや小ぶりです。実は、種が大きくて果肉がやや薄いため、現代の食用品種よりも原種的なものと考えられます。
■座論梅の樹齢とその歴史
座論梅の正確な樹齢は定かではありませんが、佐土原藩5代藩主島津惟久(1676〜1738)が詠んだ歌があり、少なくとも江戸時代の早い時期には、今の梅園のような姿を楽しめたことがわかり、梅園としての歴史は300年以上と考えられます。江戸時代後期には、現在の宮崎市高岡町の『月知梅』、鹿児島県薩摩川内市の『藤川天神梅』とあわせて、『三州(薩摩・大隅・日向)の三梅』と呼ばれ、梅の名所として知られていました。
『香は袖に色は心にとまり来て 梅の忘るる今日の帰るさ
里人に今日こそ問わん梅の香は 誰が袖ふれし春や昔と』(島津惟久)
■名前のいわれ
座論梅という珍しい名前には、いくつかの説があります。『ザロミ』という梅の種類からという説、江戸時代に佐土原藩と高鍋藩の藩境争いの協議の場として利用されたからという説、幹や枝が横に広がる様子が人々が語り合う様子に見えるからなど、定かではありません。
■高山彦九郎と座論梅
幕末の志士に影響を与え、寛政の三大奇人と呼ばれた尊王思想家『高山彦九郎』は、九州を旅して見聞したことを『筑紫日記』にまとめました。
寛政4(1792)年7月頃に座論梅をたずね、歌を詠んでいます。
『くさむらをここやかしこと文月に梅の匂ひを尋来にけり』(高山彦九郎)
■神武天皇の伝説と戦前の整備
大正時代以降には、『神武天皇が湯之宮に行幸し、湯あみして梅の杖をついたところ、今の座論梅ができた』という言い伝えが郷土資料等に記録されるようになります。昭和15年には神武天皇聖跡地として整備されました。
■湯之宮座論梅の公園整備
新富町では、湯之宮座論梅とその周辺環境を後世に伝えるため、公園整備を行ってきました。現在国の指定地に古くから自生する株が45株あり。実生で育成している新しい株が多数あります。また西側には取り木や実生で育成した保護増殖株16本を活用した新梅園を整備しています。」
平成25年1月
新富町教育委員会 |
|
 |
|
 |
以上 2005.02.26撮影
|
 |
12年ぶりの訪問
|
 |
風が強いせいか、メジロは見当たりません
|
 |
|
 |
|
 |
強風で花が散っていました
以上 2017.02.18撮影 |