伊集院源次郎忠眞の供養塔
小林市指定文化財
「忠眞は島津氏の家老、伊集院忠棟(幸侃)の嫡男である。
文禄四(1595)年、幸侃は鹿屋二万石から都城八万石の領主となるが、その後の慶長四(1599)年、京都伏見の薩摩屋敷において、主家乗っ取りの嫌疑で島津忠恒(家久)により殺害された。都城の忠眞はこの事件を知り主家島津氏に反旗を翻し戦いとなった。圧内の乱である。
翌年、戦いが不利となった忠眞は、徳川家康の仲介で和睦を受け入れ、頴娃一万石を経て帖佐二万石を給された。
慶長七(1602)年、島津忠恒は上洛するにあたり忠眞にも同道を命じた。そして上洛途中にこの野尻に滞在した忠恒は、八月十七日、鹿狩りを行った際に忠眞主従を殺害させた。
この事件で忠眞射殺の命を受けた穆佐の士、押川治右衛門と渕脇平馬は、忠眞と馬を交換して乗っていた平田新四郎(島津氏家老の子)を忠眞と思い誤射した。押川はその責を負い、自害したという。
ここにある供養塔(五輪塔)は、非業の死を遂げた忠眞の慰霊のため建立したものである。
また、五輪塔に向かって右側の近い方が押川治右衛門、その隣が平田新四郎の供養碑で、事件の翌年、押川則貞が施主となり建立したものである。なお敷地内後方に並ぶ石碑は、忠眞家臣の墓石と考えられ、野尻城址に散在していたものを、平成二十一年、この地に移したものである。」
平成二十一年十二月
小林市教育委員会 |